「どう考えるか」に就て
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)俄《にわか》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九四六年二月〕
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 最近、一つの示唆に富んだ経験をした。この頃は、いろいろなところで新しい雑誌の発行や本の出版計画がある。或る書房が、文化・文学雑誌の創刊をすることとなって、原稿をたのまれた。時間がなくて、すぐその希望には応じかねた。けれども、一部の作家が全く窒息させられていた何年かの間、少くともその書房は、将来の展望を失わず、文化の本質に対して持するところある態度を保って来ていた。ただ断ってしまうのは、何か気のすまないところがあったので、考えた末、もしや、そこならば、落着いてそういう種類のものの持つ、文化的な意味も理解されるかと思って、私がこれ迄十二年の間に、獄中の宮本へ送った手紙を、少し系統だてて年代順に載せてみたらばどうかしらと提案した。編輯に当っている人は、興味をもち、せき立って、最初の二通をもって行った。それは一九三四年十二月下旬に、市ヶ谷刑務所あてに書かれた手紙であった。
 すると、二三日経って、同じ人が訪ねて来た。大変恐縮の様子で、自分は面白いと思って持って行ったが、編輯顧問をしている人々皆で読んでみたらば、「思想性」がないから、自分の方の雑誌には不適当だという強硬な意見がつよくて、失礼であるが御返しする。尤も考えてみれば刑務所への手紙は幾重もの検閲を経るのであるから、はっきりしたことの書けるわけはなかったのに、思慮が足りなくて陳弁された。
 原稿は、いずれ又のこととして事務上の片は簡単についた。しかし、わたしの心の内には沢山の疑問がのこされた。
 そもそも「思想性」というものは、どういうものを指して呼ばれる名なのであろうか、と。
 終戦後、世界に類のなかった日本の文化弾圧は一応終熄されて、俄《にわか》に総てのことを云い、又書きしてよいことになった。雑誌の編輯者や出版者たちは、競って進歩的であり、民主的であらねばならないことになった。過去十数年に亙った政府の精神圧殺方針に対して堅い内部抵抗の力を保っていて、今日、将に、その重石がとれ、生新溌剌な圧力の高い迸《ほとばし》りを見せている部分も、明らかに存在している。だがこの節の一般文化面を見わたしたとき、私たちの率直な感想は、どうだろうか。抑圧されていた日本文化の急進性はこんなにも豊富であったのか、と一夜に開いた花園の絢爛さに瞠目するよりは、むしろ、反対の印象があるように思える。例えば、余り体力の強壮でない中学の中級生たちが、急に広場に出されて、一定の高さにあげられた民主主義という鉄棒に向って、出来るだけ早くとびついて置かないとまずい、という工合になって、盛にピョンピョンやりはじめたような感じがなくはない。
 ジャーナリズムの上に、この事情をあてはめると、今日の編輯者は、自身の理解や生活態度がどの程度のものかということは抜きにして、ともかく「思想性」のはっきりしたものを捉えなくてはものにならない、という現象になっているのである。
 おのずからそこに客観的な効果は在り得るのだから、それをとやかく云うには及ばない。一行でも多く、一冊でも多く、人間の独立と、よろこび多い合理性にとんだ社会生活の建設に役立つ印刷物が出なくてはならない。人民の経済生活は極めて危機に瀕しているから、もう一二ヵ月もすれば出版物に対する購買力も低減するだろうからという見越しで、すべての出版業者が、せき立ち焦っているのも、結構と思う。わたし達は、自身が餓えつつあるとき、せめては何が故に、自分達はこうも飢じいのか、ということを知り学び、そこから脱出する方法を発見しようとする旺盛な人間的意欲をもつのであるから。その足しになるものなら、一冊の本の買えるうちにこそ買われなければならない。
 こういう応急的な思想性の需要と供給との現象が、現在の文化面を忙しく右往左往しているのであるが、日本ではおそらく明治開化の時代にも、日露戦争後の社会問題擡頭期にも、第一次欧州大戦後の社会科学への関心の高まった時代にも、今日見られると同じような現象が見られたのではなかったろうか。そして、真面目に社会文化の明日への進展を考えている多数の人々は、過去に於ても今日に於ても見られるこの日本型文化躍進の足どりに、この際極めて重要な実質上の進化がなければならないことを直感しているのではなかろうかと思う。言葉をかえて云えば、やむを得ない応急的なあわただしさの反面に、日本の文化はもっともっと落着いて、蘊蓄《うんちく》を深く、根底から確乎とした自身の発展的推進力を高めて行かなければ、真に世界文化の水準に到達することは困難である、という自戒を感じている
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