のではないかと思う。
 日本型の文化躍進の特徴は、日本の社会が明治以来不具のまま置かれて来た社会機構全般の後進性に伴っていて、奥ゆきなく、反射的で、真の意味で自立した人間の文化としての伝統を摂取し、それを生かしてゆく強靭な理性の弾機《ばね》をもち得ないで来ている。皮相の形式的な適合性をもって来たが、摂取と創造との力は薄弱であった。

 現実の一例として、再び自分の手紙の場合について考えて見よう。
 ここに、一人の知識人が、理性に立った社会判断の故に治安維持法にふれて、自由を奪われ、獄中生活をしている。その妻も、文学の活動について同じような困難に面しながら、心からその良人の立場を支持し、その肉体と精神とを可能な限り健全な、柔軟性にとんだものとして護ろうとして、野蛮で、恥知らずな検閲の不自由をかいくぐりつつ話題の明るさと、ひろさと、獄外で推移しつつある世態とをさりげない家族通信の裡に映そうと努力したことは、その筆者が誰であり彼であるということをぬきにして、一見消極であるが、真の意味では積極的な日本の文化野蛮との闘いの一例であった。何百人、何万人の妻や親、同胞が、それぞれの形でそういう闘いをして来た。どんな平凡な文字しかそこに表わされていないとしても、そのような種類の通信が存在すること、そのことが、既に一定の思想性の上に立った現象なのである。
 岩ばかりの峡谷の間から、かすかに、目に立たず流れ出し、忍耐づよく時とともにその流域をひろげ、初めは日常茶飯の話題しかなかったものが、いつしか文化・文学の諸問題から世界情勢についての観測までを互に語り合う健やかな知識と情感との綯《な》い合わされた精神交流となって十二年を成長しつづけて来たという事実は、単なる誰それの愛情問題にはとどまらない。民主主義社会の黎明がもたらされ、抑圧の錠が明けられたとき、日本の文化人は既に十分の準備をもって新たな文化への発足をその敷居に立って用意していたか、そうでなかったかということに直接に関連して来る。今日、文化と思想との自由を云い、その自由な発展の可能を語るならば、それは重く苦しかったこれまでの十数年間を、文化人が理性の勝利を確信しつつどんな形で、文化の本質を守りつづけ、押しすすめて来ていたかという点への見直しなしに、真の歩み出しは不可能なのである。
 雑誌編輯者としての「かん」から、今日のせわしない空気に対して、そういう手紙の編纂掲載は時日からいって、まだ時機が早いというのならば、それは当っていると思う。けれども「思想性」がないから、という片づけかたには、それを掲載するしないにかかわらず、文化発展のための蓄積・文化進歩の一々の過程についての綿密な評価の欠如が感じられる。
 第一次欧州大戦後、敗戦したドイツではフライブルグ大学教授ヴィットコップによって「戦没学生の手紙」が蒐録され、岩波新書の一冊として翻訳が刊行されていた。真摯な若い心に、戦争の理不尽と幻滅とは、どのように映ったか、しかも猶これらの若者達が、名状すべからざる困難な日々の中に、自分達の経験をかみしめ、それを記録して行った姿は、深く心をうつものがある。
 日本で、戦争中、どれだけ沢山の有能な若者が死んで行ったろう。彼等はどのように自分の置かれた立場を理解し、省察し、批判したであろうか。
 日本の当局は、若い精神とその洞察力とを極度に恐れた。通信はやかましく検閲され、帰還するとき日記をつけていたものはとり上げられて焼かれた。今日、わたし共は、愛する若者たちの命によって書かれた只一冊の「戦没学生の手紙」さえも持ち得ないのである。
 この事実は、死なされた人々の問題ではない。生きている人々にとっての問題であり、特に今日の青年たちの内的支柱にとって、重大な関係がある。
 戦争目的のために若い世代は考えることを禁ぜられた。激しい生活の諸現象は、本能的に若い精神を揺り動かすのだけれども、何を捉えて、どう考えを展開させて行ってよいのか判らない状態におかれている。ここに、日本の文化の深奥において、思想性はいまだ確立されていなかった過去の悲劇的な投影があるのである。
 あらゆる時期と場合にあらゆる変形をもって、合理的な判断を守り、沈黙することは決して思索し、批判することをやめることではない。思想は、人間が生きているということと全く切りはなせないものであるという自覚が、各人の日常生活態度に浸透しつくしていなかった。そのために、「戦没学生の手紙」一冊をさえ我がものとしてのこすことが出来なかったとともに、今日生きている幾千万の若い精神に、無思想の苦悩と、思索能力への自卑、方法の分らなさをもたらしている。字で書かれ、口に云われ、銘うたれた「思想性」でなければ、思想性でないように思う日本文化の一面にある根本的な非思想性は、考えさせ
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