まいとする強権に向ったとき、却って人間の権利としての精神的抵抗力を発揮し得なかったのである。
 前進するためには、一歩一歩がしっかりとした自覚をもって踏みしめられなければならない。アルプス登攀列車は、一刻み、一刻み毎に、しっかり噛み合って巨大な重量を海抜数千メートルの高み迄ひき上げてゆく堅牢な歯車をもっている。わたし達が近代的外皮に装われた最も悪質な封建性から自身の全生活を解放して、民主主義に立つ眺望ひろい人生を確保しようとするならば、活字面だけの間に思想性をかきさがさず、何より先に、自分の生活実体をはっきり自分のものとして把握しなければならない。かつて自分の頬げたに飛んだ一つの拳の意味を十分知らなければならない。そして、生活の刻々が自分の心に湧き起すやみ難い感想こそ、ほかならぬ今日の思想であることを、みずから信じなければならない。思想は私たちの呼吸とともにある。
「別人にならずして戦争から帰る人はありません」これはルドルフ・フィッシャーというハイデルベルグ大学の学生が、一九一四年の冬二十四歳で戦死する少し前書いた手紙の中にある言葉である。何と簡潔な、何と真実な声であろう。今日の私たちはこう云うことが出来る。
「別人にならずして、この戦争を経験したものはありません」と。[#地付き]〔一九四六年二月〕



底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
   1952(昭和27)年5月発行
初出:「改造」
   1946(昭和21)年2月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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