るのでした。――云わずと知れた、彼は例の神秘的な精神錯乱の発作に捕われたのです。
実際の話、私がその患者を見て、まず一番最初に感じたのは同情とそれから恐れとでした。が、その次に感じたのは、たしかに学問的な満足だったことを白状します。――私はその患者の脈の状態や性質やを詳しく書きとめ、それから彼のからだの筋肉の剛直性をためしてみたり、またその感受性や反応の度合いをしらべてみたりしました。
が、これらの諸点の診察では、私がかつて取扱った患者と、特別に違った所は何もありませんでした。そこで私はこうした場合に、患者に亜硝酸アミルを吸入させて、よい結果を得ることを思い出しましたので、この時こそ、その効果をためしてみるのによい時だと考えつきました。ところが、その瓶は折悪しく階下の実験室においてありましたので、私は患者を椅子に腰かけさせたまま残しておいて、それを取りに階下におりたのです。そして、そうですね、せいぜい五分、――その瓶をさがすのに手間どれたのですが、すぐいそいで診察室に引返しました。――ところがどうです、そのひま[#「ひま」に傍点]に患者は私の診察室からどこかへ出ていっちまって、室の中はからっぽなんじゃありませんか。まあ、その時の私の驚き方をご想像下さい。
無論私は、第一番に待合室にとんでいってみましたよ。するとどうです、その息子もやっぱりいないのです。大広間のドアが閉められてはいましたが、鍵がかけてなかったのですね――その患者たちを案内して来たボーイは、まだ来たばかりのボーイで、とにかく気がきかないのです。で、彼はいつも階下に待っていて、私がベルを鳴らすと二階へとんで上って来て、患者を下へつれておりることになっていたのです。――そのボーイも何も物音を聞かなかったと云うのです。こうしてこの日のこの事件は全くわけの分からないままにすんでしまったのでした。――が、それからしばらくしてブレシントン氏がその習慣の散歩から帰ってきましたが、しかし私はその事件については何も話しをしませんでした。と云うのは、なるべく彼と、うるさい事件についてはかかり合わないような方針をとっていたからなのです。
こんなわけで昨日は不思議な事件が起きたままで暮れてしまい、それから今日は、私はまた今日の仕事に追われて、ついそのロシア人親子のことを忘れておりました。ところがきょうの夕方のこと、ふと
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