、この事件については、どちらかと云えば、危険性と云うよりも、変な得体の知れなさはあったが、しかし結局大したものではないと、この時までは考えていたのであった。あんな綺麗な娘さんに、男が待ち伏せをするとか、あるいは追っかけるとか云ったようなことも、もう世間一般から、云ってそう珍らしいとすべき話でもないし、またその待ち伏せの追っかけの男も、強いて娘さんに話しかけようとするでもなく、かえって娘さんの方から近づくと、遁げ出してしまうほどの小心者とすれば、まあ大した悪者でもあるまいと思った。なるほど暴漢のウードレーは、なかなかの注意人物に相違ないが、しかしこれも我々の美しい若い依頼者を困らせたのは、ただ一度だけで、その後はカラザースの家を訪問しても、彼の女の面前にも現われないとのこと、――それから例の自転車乗りの男も、居酒屋の主人のいわゆる、週末組の一員には相違ないが、しかしこの者も、一たいどう云う者で、何の目的であんなことをするかも、全く不得要領である。しかし私は、ホームズの態度がいかにも厳粛で、しかも出かける時にピストルまでもポケットにねじこんだので、これはとにかく、この変な事件の後にも、なかなかの惨劇も予想されているのだなと思った、のであった。
 夜通しの雨が霽《は》れて、ここにも太陽の輝かしい朝であった。荒野に蔽われた田園は、今ちょうど満開のハリエニシダの花が、方々に叢《むらが》り咲いていて、ロンドンの暗褐色《あんかっしょく》黄褐色《こうかっしょく》、――石板灰色《せきばんかいしょく》に、あきあきしている目には、とても素晴らしいものに見えた。ホームズと私とは、朝の新鮮な空気を吸いこみ、小鳥の音楽、四月の春の生々《いきいき》とした黄韻《こういん》を享楽しながら、砂の多い広い道を進んだ。路は上りになって、クルックスベリーの丘の肩のところに行ったら、我々は老樫樹の中から屹立している、厳めしい廃院を見た。もっともこの老樫樹は、もう老いたと云っても、その取り囲んでいる廃院よりは若いのであるが、――ホームズは、褐色の荒野と、芽のふき出ている緑の森の間をうねっている、赤味を帯びた黄色の帯のような、一条の道路を指した。はるか遠方にポツリっと見えた黒い一点、――それは我々の方に進んで来る乗物であった。ホームズは思わずも叫んだ。
「おや、三十分おそかった! もしあれが、あの娘さんの馬車だとすれば、あの娘さんは一列車早く発つつもりだったんだね。ワトソン君、俺たちが娘さんに出逢う前に、あのチァーリントンの森にさしかかってしまったら大変なことになるよ」
 私たちが上り坂を越してからは、もうその乗り物の姿は見えなかった。しかし私たちはどんどん道を急いだが、私の元来の運動不足の職業が、今はしみじみと身体に答えて、いや応なしに私は、ホームズからは遅れてしまった。しかしホームズは少しも弱る様子がなかった。日頃練成していた精力が、全く驚くばかりであった。彼の跳ね返るような歩調は、決して衰えなかったが、私から百|碼《ヤード》ばかりも先んじて行った彼は、ふと立ち止まった。そして彼が手を上げてまわすのを見たが、それは悲しみと絶望の相図であった。と、――見る中《うち》に、空《から》な二輪馬車が、手綱を引きずりながら、カーブを曲ってガタガタと音させながら、私たちの方に駈けて来るのであった。
「遅かった、ワトソン君、遅かった!」
 ホームズは叫んだ。私は喘ぎながら彼の側《そば》にかけ寄った。
「もう一つ早い汽車を考えなかったなんて、僕は何と云ううっかりしたことをしたものであろう! 誘拐されたんだ。ワトソン君、誘拐だ! 惨殺されたんだ! ああしかしまだ解らない! さあ道を塞いで馬を止めて。――さあそれでよい、すぐに乗りたまえ。一つこの失敗の取り返しが出来るかどうか、やれるだけやってみよう」
 私たちは二輪馬車に乗った。
 ホームズは馬首をまわして、ピシャリと一打ち鞭を当てて道を進んだ。カーブを廻ってからは例の廃院と荒野の間の、真直ぐな道が、我々の目の前に展開した。私はホームズの腕をぎゅっとつかんだ。
「ああ、あの男さ!」
 私はせきこんで云った。
 その時ちょうど一人の自転車乗りが、私たちの方に走って来たのであった。その者の頭は低く前にかけられ、肩は丸く下《さが》っていて、ペダルを一踏するごとに、一オンスずつのエネルギーが消耗するのだと云うような恰好であった、彼は競争者のように疾走して来たのであったが、突然髭のある顔を起して、私たちを近々と見つめた。そしてピタリっと車を引き止めて、自転車から飛び降りた。その漆黒の髭は、蒼白な顔色に、まことに変な対照でありまたその目は、熱病にでもつかれている者のように、キョロキョロとしていた。彼は私たちと馬車を、激しく見つめていたが、その顔にはみる
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