ちゃいけませんよ、ピイクロフトさん」
 と、私のこの新しい知り合いは、私の顔の上から下まで見下ろしながら云うのでした。
「ローマは一日で築き上げられませんよ。――事務所は貧弱でも、私たちは背後にたくさんお金は持ってますから、――まあ、おかけなさい。そして持ってらした手紙を見せて下さい」
 私は彼に手紙をやりました。彼はそれを大変|叮嚀《ていねい》に読みました。
「あなたはよほど深く私の兄弟を感心させたと見えますな」
 彼は申しました。
「だが、私の兄弟は本当に鋭い批判家です。――私の兄弟はあなたとロンドンでお約束をしたんで、私はバーミングハムでするわけなんですが、しかし今度は、彼の云う通りに従いましょう。――では、どうぞそのおつもりで、お願いします」
「私の仕事はどんなことなんでしょう?」
 私はききました。
「つまり、フランスにある百三十四軒の代理店へ、英国製の器具を送り出す所のパリの本店を支配して下さればいいんですよ。取引きの約束は一週間のうちにきまりますから、その間あなたはバーミングハムにいて下すって、あなたの仕事をしていて下さればいいんです」
「と云いますと、どんなことをしたら?」
 彼は答えの代りに、曳出《ひきだ》しから大きな赤い本を出して来ました。
「これはパリの人名住所録ですが」
 と彼は云いました。
「名前の下に職業が書き込んであります。これをお宅へお持ちになって、この中にある鉄器商を全部住所と共に書き抜いていただきたいんです。そうして下されば、私たちに非常に役に立つんです」
「かしこまりました。この中に分類目録がありますね」
 私は念のためにきいてみました。
「確実なものじゃないんです。――この編纂方法は私たちのとは違ってます。――それをやっていただきたいんです。そして月曜日の十二時までに目録を私に下さいませんか。――ではさよなら、ピイクロフトさん。あなたが熱心にお骨折り下すって、会社の有為な主脳部になっていただきたいんです」
 私はその大きな本を小側《こわき》に抱え、胸の中に矛盾した困惑した感情を持ちながらホテルに帰って来たのです。一方では確実に仕事をする約束をして、百|磅《ポンド》をポケットの中に持っていながら、一方では、事務所の外見、壁の上に会社の名前が出ていなかったこと、それからその他事務家の注意しないではいられない部分などが、私のその雇主
前へ 次へ
全22ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三上 於菟吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング