浚渫船
葉山嘉樹

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蝶番《ちょうつがい》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ]――一九二六、七、一〇――
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 私は行李を一つ担いでいた。
 その行李の中には、死んだ人間の臓腑のように、「もう役に立たない」ものが、詰っていた。
 ゴム長靴の脛だけの部分、アラビアンナイトの粟粒のような活字で埋まった、表紙と本文の半分以上取れた英訳本。坊主の除れたフランスのセーラーの被る毛糸帽子。印度の何とか称する貴族で、デッキパッセンジャーとして、アメリカに哲学を研究に行くと云う、青年に貰った、ゴンドラの形と金色を持った、私の足に合わない靴。刃のない安全剃刀。ブリキのように固くなったオバーオールが、三着。
「畜生! どこへ俺は行こうってんだ」
 樫の盆見たいな顔を持った、セコンドメイトは、私と並んで、少し後れようと試みながら歩いていた。
「ヘッ、俺より一足だって先にゃ行かねえや。後ろ頭か、首筋に寒気でもするんかい」
 私は又、実際、セコンドメイトが、私の眼の前に、眼の横ではいけない、眼の前に、奴のローラー見たいな首筋を見せたら、私の担いでいた行李で、その上に載っかっている、だらしのないマット見たいな、「どあたま」を、地面まで叩きつけてやろう! と考えていたのだ。
「で、お前はどこまでも海事局で頑張ろうと云う積りかい?」
 と、セコンドメイトは、私に訊いた。
「篦棒奴。愚図愚図泣言を云うない。俺にゃ覚悟が出来てるんだ。手前の方から喧嘩を吹っかけたんじゃねえか」
 私は、実は歩くのが堪えられない苦しみであった。私の左の足は、踝の処で、釘の抜けた蝶番《ちょうつがい》見たいになっていたのだ。
「お前は、そんな事を云うから治療費だって貰えないんだぞ。それに俺に食ってかかったって、仕方がないじゃないか、な、ちゃんと嘆願さえすれば、船長だって涙金位寄越さないものでもないんだ。それを、お前が無茶云うから、船長だって憤るんだ」
 セコンドメイトは、栗のきんとん見たいな調子で云った。
 そのきんとんには、サッカリンが多分に入っていることを、私は知っていた。その上、猫入らずまで混ぜてあったのだが、兎に角私は、滅茶苦茶に甘いものに飢えていた。
 だものだから、ついうっかり、奴さんの云う事を飲み込もうとした。
 涎でも垂らすように、私の眼は涙を催しかけた。
「馬鹿野郎!」
 私は、力一杯怒鳴った。セコンドメイトの猫入らずを防ぐと同時に、私の欺され易いセンチメンタリズムを怒鳴りつけた。
 倉庫は、街路に沿うて、並んで甲羅を乾していた。
 未だ、人通りは余り無かった。新聞や牛乳の配達や、船員の朝帰りが、時々、私たちと行き違った。
 何かの、パンだとか、魚の切身だとか、巴焼だとかの包み紙の、古新聞が、風に捲かれて、人気の薄い街を駆け抜けた。
 雨が来そうであった。
 私の胸の中では、毒蛇が鎌首を投げた。一歩一歩の足の痛みと、「今日からの生活の悩み」が、毒蛇をつッついたのだ。
「おい、今んになって、口先で胡魔化そう、ったって駄目だよ。剥製の獣じゃあるめえし、傷口に、ただの綿だけ押し込んどいて、それで傷が癒りゃ、医者なんぞ食い上げだ! いいか、覚えてろ! 万寿丸は室浜の航海だ。月に三回はいやでも浜に入って来らあ。海事局だって、俺の言い分なんか聞かねえ事あ、手前や船長が御託を並べるまでも無えこっちで知ってらあ。愈々どん詰りまで行けゃあ、俺だって虫けらた違うんだからな。そうなりゃ裸と裸だ。五分と五分だ。松葉杖ついたって、ぶっ衝って見せるからな」
 松葉杖! 私はその時だってほんとうは、松葉杖を突いてでなければ、歩けないほどに足が痛く、傷の内部は化膿していたのだ。
 私は、その役にも立たない、腐った古行李をもう担いで歩くのが、迚も重くて、足に対して堪えられない拷問になって来た。
 道は上げ潮の運河の上の橋にかかっていた。私は橋の上に、行李を下してその上に腰をかけた。
 運河には浚渫船《しゅんせつせん》が腰を据えていた。浚渫船のデッキには、石油缶の七輪から石炭の煙が、いきなり風に吹き飛ばされて、下の方の穴からペロペロ、赤い焔が舌なめずりをして、飯の炊かれるのを待っていた。
 団扇《うちわ》のような胴船が、浚渫船の横っ腹へ、眠りこけていた。
 私は両手で顎をつっかって、運河の水を眺めていた。木の切れっ端や、古俵などが潮に乗って海から川の方へ逆流して行った。
 セコンドメイトは、私と並んで、私が何を眺めているか検査でもするように、私の視線を追っかけていた。
 私は左の股に手をやって、傷から来た淋巴腺の腫れをそうっと撫でた。まるで横痃《よこね》ででもあるかのように、そいつは痛かった。
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