目があるからな。ざまあ見やがれ、鼻血なんぞだらしなく垂らしやがって――
 私は、本船から、艀から、桟橋から、ここまでの間で、正直の処全く足を痛めてしまった。一週間、全一週間、そのために寝たっきり呻いていた、足の傷の上にこの体を載せて、歩いたので、患部に夥しい充血を招いたのに違いなかった。
 ――どこにいるんだか、生きているんだか死んでるんだか知らないが、親たちが此態を見たら――
 と、私は何故ともなく、両親の事を思い出した。
 私の親が私にして呉れたのと、私の親ほどな年輩の世間の他人野郎とは、何と云うひどい違い方だろう。
 私は頭を抱えながら、滅茶苦茶に沢山な考えを、掻き廻していた。そして、私の手か頭かに、セコンドメイトの手の触れるのを待っていた。
 私は、おそらく、五分間もそうしていた。だが、手は私に触れなかった。
 私は顔を上げた。
 私を通りすがりに、自動車に援け乗せて、その邸宅に連れて行ってくれる、小説の美しいヒロインも、そこには立っていなかった。おまけにセコンドメイトまでも、待ち切れなくなったと見えて、消え失せてしまっていた。
 浚渫船の胴っ腹にくっついていた胴船の、船頭夫婦が、デッキの上で、朝飯を食っているのが見えた。運転手と火夫とが、船頭に何か冗談を云って、朗かに笑った。
 私は静に立ち上った。
 そして橋の手すりに肘をついて浚渫船をボンヤリ眺めた。
 夜明け方の風がうすら寒く、爽かに吹いて来た。潮の匂いが清々しかった。次には、浚渫船で蒸汽を上げるのに、ウント放り込んだ石炭が、そのまま熔けたような濃い烟になって、私の鼻っ面を掠めた。
 それは、総て健康な、清々しい情景であり、且つ「朝」の溌溂さを持っていた。
 船体の動揺の刹那まで、私の足の踝にジャックナイフの突き通るまでは、私にも早朝の爽快さと、溌溂さとがあった。けれども船体の一と揺れの後では、私の足の踝から先に神経は失くなり、多くの血管は断ち切られた。そして、その後では、新鮮な溌溂たる疼痛だけが残された。
「オーイ、昨夜はもてたかい?」
 ファンネルの烟を追っていた火夫が、烟の先に私を見付けて、デッキから呶鳴った。
「持てたよ。地獄の鬼に!」
 私は呶鳴りかえした。
「何て鬼だ」
「船長ってえ鬼だったよ」
「大笑いさすなよ。源氏名は何てんだ?」
「源氏名も船長さ」
「早く帰れよ。ほんとの船長に目玉を食うぜ」
「帰る所なんかねえんだよ。ペイドオフ(馘首)の食いたてなんだ」
 浚渫船のデッキから、八つの目が私に向いた。
「何丸だ?」
「万寿丸よ!」
「あんな泥船ならペイドオフの方が、よっ程サッパリしてらあ。いい事をしたよ」
 彼等は、朝の潮に洗われた空気に相応しく快活に笑った。
 それは、負傷さえしていなければ、火夫の云う通りであった。だが、今は私は、一銭の傷害手当もなく、おまけに懲戒下船の手続をとられたのだ。
 もう、セコンドメイトは、海事局に行っているに違いない。
 浚渫船は蒸汽を上げた。セーフチーバルヴが、慌てて呻り出した。
 運転手がハンドルを握った。静寂が破れて轟音が朝を掻き裂いた。運転手も火夫も、鋭い表情になって、機械に吸い込まれてしまった。
 ――遊んでちゃ食えないんだ。だから働くんだ。働いて怪我をしても、働けなくなりゃ食えないんだ!――
 私は一つの重い計画を、行李の代りに背負って、折れた歯のように疼く足で、桟橋へ引っ返した。
[#地から1字上げ]――一九二六、七、一〇――



底本:「日本プロレタリア文学全集・8 葉山嘉樹集」新日本出版社
   1984(昭和59)年8月25日初版
   1989(平成元)年3月25日第5刷
初出:「文芸戦線」
   1926(大正15)年9月号
入力:林 幸雄
校正:伊藤時也
2010年1月26日作成
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