牢獄の半日
葉山嘉樹
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)時化《しけ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「虫+條」、41−13]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)しめた/\
×:伏せ字
(例)××することを
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一
――一九二三年、九月一日、私は名古屋刑務所に入っていた。
監獄の昼飯は早い。十一時には、もう舌なめずりをして、きまり切って監獄の飯の少ないことを、心の底でしみじみ情けなく感じている時分だ。
私はその日の日記にこう書いている。
――昨夜、かなり時化《しけ》た。夜中に蚊帳戸から、雨が吹き込んだので硝子戸を閉めた。朝になると、畑で秋の虫がしめた/\と鳴いていた。全く秋々して来た。夏中一つも実らなかった南瓜が、その発育不十分な、他の十分の一もないような小さな葉を、青々と茂らせて、それにふさわしい朝顔位の花をたくさんつけて、せい一杯の努力をしている。もう九月だのに。種の保存本能!――
私は高い窓の鉄棒に掴まりながら、何とも言えない気持で南瓜畑を眺めていた。
小さな、駄目に決まり切っているあの南瓜でも私達に較べると実に羨しい。
マルクスに依ると、風力が誰に属すべきであるか、という問題が、昔どこかの国で、学者たちに依って真面目に論議されたそうだ。私は、光線は誰に属すべきものかという問題の方が、監獄にあっては、現在でも適切な命題と考える。
小さな葉、可愛らしい花、それは朝日を一面に受けて輝きわたっているではないか。
総べてのものは、よりよく生きようとする。ブルジョア、プロレタリア――
私はプロレタリアとして、よりよく生きるために、ないしはプロレタリアを失くするための運動のために、牢獄にある。
風と、光とは私から奪われている。
いつも空腹である。
顔は監獄色と称する土色である。
心は真紅の焔を吐く。
昼過――監獄の飯は早いのだ――強震あり。全被告、声を合せ、涙を垂れて、開扉を頼んだが、看守はいつも頻繁に巡るのに、今は更に姿を見せない。私は扉に打つかった。私はまた体を一つのハンマーの如くにして、隣房との境の板壁に打つかった。私は死にたくなかったのだ。死ぬのなら、重たい屋根に押しつぶされる前に、扉と討死しようと考えた。
私は怒号した。ハンマーの如く打つかった。両足を揃えて、板壁を蹴った。私の体は投げ倒された。板壁は断末魔の胸のように震え戦《おのの》いた。その間にも私は、寸刻も早く看守が来て、――なぜ乱暴するか――と咎《とが》めるのを待った。が、誰も来なかった。
私はヘトヘトになって板壁を蹴っている時に、房と房との天井際の板壁の間に、嵌《は》め込まれてある電球を遮《さえぎ》るための板硝子が落ちて来た。私は左の足でそれを蹴上げた。足の甲からはさッと鮮血が迸《ほとばし》った。
――占めた!――
私は鮮血の滴る足を、食事窓から報知木の代りに突き出した。そしてそれを振った。これも効力がなかった。血は冷たい叩きの上へ振り落とされた。
私は誰も来ないのに、そういつまでも、血の出る足を振り廻している訳にも行かなかった。止むなく足を引っ込めた。そして傷口を水で洗った。溝の中にいる虫のような、白い神経が見えた。骨も見えた。何しろ硝子板を粉々に蹴飛ばしたんだから、砕屑でも入ってたら大変だ。そこで私は丁嚀《ていねい》に傷口を拡げて、水で奇麗に洗った。手拭で力委せに縛った。
応急手当が終ると、――私は船乗りだったから、負傷に対する応急手当は馴れていた――今度は、鉄窓から、小さな南瓜畑を越して、もう一つ煉瓦塀を越して、監獄の事務所に向って弾劾演説を始めた。
――俺たちは、被告だが死刑囚じゃない、俺たちの刑の最大限度は二ヶ年だ。それもまだ決定されているんじゃない。よしんば死刑になるかも分らない犯罪にしても、判決の下るまでは、天災を口実として死刑にすることは、はなはだ以て怪《け》しからん。――
という風なことを怒鳴っていると、塀の向うから、そうだ、そうだ、と怒鳴りかえすものがあった。
――占めた――と私はふたたび考えた。
あらゆる監房からは、元気のいい声や、既に嗄《しゃが》れた声や、中にはまったく泣声でもって、常人が監獄以外では聞くことのできない感じを、声の爆弾として打ち放った。
これ等の声の雑踏の中に、赤煉瓦を越えて向うの側から、一つの演説が始められた。
――諸君、善良なる諸君、われわれは今、刑務所当局に対して交渉中である! 同志諸君の貴重なる生命が、腐敗した罐《かん》詰の内部に、死を待つために故意に幽閉されてあ
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