るという事実に対して、山田常夫君と、波田きし子女史とは所長に只今交渉中である。また一方吾人は、社会的にも世論を喚起する積りである。同志諸君、諸君も内部において、屈するところなく、××することを希望する!――
 演説が終ると、獄舎内と外から一斉に、どっと歓声が上がった。
 私は何だか涙ぐましい気持になった。数ヶ月の間、私の声帯はほとんど運動する機会がなかった。また同様に鼓膜も、極めて微細な震動しかしなかった。空気――風――と光線とは誰の所有に属するかは、多分、典獄か検事局かに属するんだろう――知らなかったが、私達の所有は断乎として禁じられていた。
 それが今、声帯は躍動し、鼓膜は裂けるばかりに、同志の言葉に震え騒いでいる。
 ――この上に、無限に高い空と、突っかかって来そうな壁の代りに、屋根や木々や、野原やの――遙なる視野――があればなあ、と私は淋しい気持になった。
 陰鬱の直線の生活! 監獄には曲線がない。煉瓦! 獄舎! 監守の顔! 塀! 窓!
 窓によって限られた四角な空!
 夜になると浅い眠りに、捕縛される時の夢を見る。眠りが覚めると、監獄の中に寝てるくせに、――まあよかった――と思う。引っ張られる時より引っ張られてからは、どんなに楽なものか。
 私は窓から、外を眺めて絶えず声帯の運動をやっていた。それは震動が止んでから三時間も経った午後の三時頃であった。
 ――オイ――と、扉の方から呼ぶ。
 ――何だ! 私は答える。
 ――暴れちゃいかんじゃないか。
 ――馬鹿野郎! 暴れて悪けりゃなぜ外へ出さないんだ!
 ――出す必要がないから出さないんだ。
 ――なぜ必要がないんだ。
 ――この通り何でもないってことが分っているから出さないんだ。
 ――手前は何だ? 鯰《なまず》か、それとも大森博士か、一体手前は何だ。
 ――俺は看守長だ。
 ――面白い。
 私はそこで窓から扉の方へ行って、赤く染った手拭で巻いた足を、食事窓から突き出した。
 ――手前は看守長だと言うんなら、手前は言った言葉に対して責任を持つだろうな。
 ――もちろんだ。
 ――手前は地震が何のことなく無事に終るということが、あらかじめ分ってたと言ったな。
 ――言ったよ。
 ――手前は地震学を誰から教わった。鯰からか! それとも発明したのか。
 ――そんなことは言う必要はないじゃないか。ただ事実が証明してるじゃないか。
 ――よろしい。あらかじめ無事に収まる地震の分ってる奴等が、慌てて逃げ出す必要があって、生命が危険だと案じる俺達が、密閉されてる必要の、そのわけを聞こうじゃないか。
 ――誰が遁げ出したんだ。
 ――手前等、皆だ。
 ――誰がそれを見た?
 ――ハハハハ。
 私は笑い出した。涙は雨洩のように私の頬を伝い始めた。私は首から上が火の塊になったように感じた。憤怒!
 私は傷《きずつ》いた足で、看守長の睾丸を全身の力を罩《こ》めて蹴上げた。が、食事窓がそれを妨げた。足は膝から先が飛び上がっただけで、看守のズボンに微に触れただけだった。
 ――何をする。
 ――扉を開けろ!
 ――必要がない。
 ――必要を知らせてやろう。
 ――覚えてろ!
 ――忘れろったって忘られるかい。鯰野郎! 出直せ!
 ――……
 私は顔中を眼にして、彼奴《きゃつ》を睨《にら》んだ。
 看守長は慌《あわ》てて出て行った。
 私は足を出したまま、上体を仰向けに投げ出した。右の足は覗き窓のところに宛てて。
 涙は一度堰を切ると、とても止るものじゃない。私はみっともないほど顔中が涙で濡れてしまった。
 私が仰向けになるとすぐ、四五人の看守が来た。今度の看守長は、いつも典獄代理をする男だ。
 ――波田君、どうだね君、困るじゃないか。
 ――困るかい。君の方じゃ僕を殺してしまったって、何のこともないじゃないか。面倒くさかったらやっちまうんだね。
 ――そんなに君興奮しちゃ困るよ。
 俺は物を言うのがもううるさくなった。
 ――その足を怪我してるんだから、医者を連れて来て、治療さしてくれよ。それもいやなら、それでもいいがね。
 ――どうしたんです。足は。
 ――御覧の通りです。血です。
 ――オイ、医務室へ行って医師にすぐ来てもらえ! そして薬箱をもってついて来い。
 看守長は、お伴の看守に命令した。
 ――ああ、それから、面会の人が来てますからね。治療が済んだら出て下さい。
 僕が黙ったので彼等は去った。
 ――今日は土曜じゃないか、それにどうして午後面会を許すんだろう。誰が来てるんだろう。二人だけは分ったが、演説をやったのは誰だったろう。それにしても、もう夕食になろうとするのに、何だって今日は面会を許すんだろう。
 私は堪らなく待ち遠しくなった。
 足は痛みを覚えた。
 一舎の方でも盛んに
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