んだ。
「何だ! あいつ等あ」
 ブリッジを歩きまわっていた、一運(一等運転手)は、コーターマスターに云った。
「揃って帰っちまやがったじゃないか」
 コーターマスターは、コムパスを力委せに蹴飛ばしながら、
「サア」と、気のない返事をした。
 ――滅茶苦茶に手前等は儲けやがって、俺たちを搾りやがるから、いずれストライキだよ。吠え面かくな――と彼は心の中で思った。
「おかしいじゃないか、おい」
 一運は、チャートルーム(海図室)にいる、相番のコーターマスターを呼んだ。
「オーイ」
 相番のコーターマスターが、タラップから顔を覗かすと、直ぐに一運は怒鳴った。
「時間中に、おもてへ入ることは能きないって、おもてへ行って、ボースンにそう云って来い」
「ハイ」
 彼が下りかけると、浴せかけるように、一運はつけ加えた。
「そして、奴等が何をしてるか見て来い。よく見てから云うんだぞ」
「オッ」
 彼は、もうサロンデッキを下りながら答えた。
 一運は、ブリッジをあちこち歩き始めた。
 ブリッジは、水火夫室と異って、空気は飴のように粘ってはいなかった。
 船の速度丈けの風があった。そこでは空気がさらさらしていた。
 殊に、そこは視野が広くて、稀には船なども見ることが出来たし、島なども見えた。
 フックラと莟《つぼみ》のように、海に浮いた島々が、南洋ではどんなに奇麗なことだろう。それは、ひどい搾取下にある島民たちで生活されているが、見たところは、パラダイスであった。セーラーたちは、いつもその島々を、恋人のように懐しんだ。だが、その島も、船が寄港しない島に限るのであった。船がつくと、どんな島でも、資本主義にその生命を枯らされていることが暴露されるからであった。
 燈台が一つより外無い島、そして燈台守以外には、一人の人間も居ない島、そんな島が幾つも浮んでいた。そんな島は、媾曳《あいびき》の夜のように、水火夫たちを詩人にした。
 今、第三金時丸は、その島々を眺めながらよろぼうていた。

 コーターマスターは、「おもて」へ入った。彼は、騒がしい「おもて」を想像していた。
 おもて(水夫室)の中は、然し、静かであった。彼は暫く闇に眼を馴らした後、そこに展げられた絵を見た。
 チェンロッカー(錨室)の蓋の上には、安田が仰向きに臥ていた。
 三時間か四時間の間に、彼は茹でられた菜のように、萎びて、嵩が減って、グニャグニャになっていた。
 おもては、船特有の臭気の外に、も一つ「安田」の臭いが混ざって、息詰らせていた。
 水夫達は、死体の周囲に黙って立っていた。そして時々、耳から耳へ、何か囁かれた。
 コーターマスターは、ボースンの耳へ口をつけた。
「死んだのかい」
「死んだらしい」
「どうしたんだい」
「やけに呷ったらしいんだ」
「フーム」
「………………」
「で、水葬はいつかい」
「一運に一度訊いて見よう」
「酒が、わるかったんだね」
「ウム、どうもはっきり分らねえ。悪い病気じゃないといいが……」
 明日、水葬する、と云うことに決った。
 安田は、水夫たちの手に依って、彼のベッドへ横たえられた。
 大豆粕のように青ざめていた。
 彼の死に顔は、安らかに見えた。そして、こう云ってるように見えた。
「もう、どんな者にも搾られはしない」

 これ以上搾取されることが厭になった、と云う訳でもあるまいが、安田の死体が、未だ海の中へ辷り込まない、その夜、一人のセイラーと、一人の火夫とが、「又酔っ払った」
 第三金時丸は、沈没する時のように、恐怖に包まれた。
「コレラだ」と云うことが分ったのだ。
 船長、一運の二人が、おもてへ来て、「酔っ払って、管を巻いてる」患者を見た。
 二人の士官が、ともへ帰ると、ボースンとナンバンとが呼ばれた。
 彼等は行った。
 船長は、横柄に収まりかえっていられる筈の、船長室にはいなくて、サロンデッキにいた。
 ボースンとナンバンとが、サロンデッキに現れるや否や、彼は遠方から呶鳴った。
「フォア、ピーク(おもての空気室――船の云わば浮嚢――)のガットを開けろ。そして、死人と、病人とを中へ入れろ。コレラだ! それから、病人の食事は、ガットから抛り込むことにするんだ。それから、おもての者は、今日からともに来ることはならない。それから、少しでも吐いたり、下したりする者があったら、皆フォアピークへ入れるんだ。それから。エー、それから、あ、それでよろしい」
 船長は、黴菌を殺すために、――彼はそう考えた――高価な、マニラで買い込んだ許りの葉巻を、尻から脂の出るほどふかしながら、命令した。
 ボースンと、ナンバンは引き取った。
 フォアピークは、水火夫室の下の倉庫の、も一つ下にあった。
 その中は、梁や、柱や、キールやでゴミゴミしていた。そこは、印度の靴の爪
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