尖のように、先が尖って、撥ね上っていた。空気はガットで締められていたため、数年前と些も違わないで溜っていた。そして空家の中の手洗鉢のように腐っていた。
 そこは、海に沈んでいる部分なので、ジメジメしていた。殊に、第三金時丸の場合では、海水が浸みて来た。
 星の世界に住むよりも、そこは住むのに適していないように見えた。
 船虫が、気味悪く鳴くのもそこであった。
 そこへは、縄梯子をガットにかけて下りるより外に方法はなかった。十五六呎の長さの縄梯子でなければ、底へは届かなかった。
 これから病人や死体が、そこへ入るにしても、空気は、楕円形の三尺に二尺位の、ガットの穴から忍び込むより仕方がなかった。
 そんな小さな穴からは、丈夫な生きた人間が「一人」で、縄梯子を伝って降りるより外に、方法は無かった。
 病人を板か何かに載せて卸すと云うことは、不可能なことであった。病人を負って下りることもできなかった。然し、首に綱をつけて吊り下すことはできた。ただ、そうすると、病人は、もっと早く死ぬことになるのだった。
 どうして卸したらいいだろう。
 謎のような話であった。
 けれども、コレラは容赦をしなかった。
 水火夫室から、倉庫へ下りる事は、負って下りると云う方法で行われた。
 倉庫から、ピークへは、「勝手に下りて貰う」より外に方法が無かった。
 十五呎を、第一番に、死体が「勝手に」飛び下りた。
 次に、火夫が、憐を乞うような眼で、そこら中を見廻しながら、そして、最後の反抗を試みながら、「勝手」に飛び込んだ。
「南無阿弥陀仏」と、丈夫な誰かが云ったようだった。
「たすけ……」と、落ちてゆく病人が云ったようだった。そんな気がした。
 水夫は未だ確りしていた。
「俺はいやだ!」と彼は叫んだ。
 彼は、吐瀉しながら、転げまわりながら、顔中を汚物で隈取りながら叫んだ。
「俺は癒るんだ!」
「生きてる間丈け、娑婆に置いて呉れ」
 彼は手を合せて頼んだ。
 ――俺が、いつ、お前等に蹴込まれるような、悪いことをしたんだ――と彼の眼は訴えていた。
 下級海員たちは、何か、背中の方に居るように感じた。又、彼等は一様に、何かに性急に追いまくられてるように感じた。
 彼等は、純粋な憐みと、純粋な憤りとの、混合酒に酔っ払った。
 ――俺たちも――
 此考えを、彼等は頑固な靴や、下駄で、力一杯踏みつけた。が、踏みつけても、踏みつけても、溜飲のように、それはこみ上げて来るのだった。
 病める水夫は、のたうちまわった。人間を塩で食うような彼等も、誇張して無気味がる処女のように、後しざりした。
 彼等は、倉庫から、水火夫室へ上った。
「ピークは、病人の入る処じゃねえや」
「ピークにゃ、船長だけが住めるんだ」
 彼等は、足下から湧いて来る、泥のような呻き声に苛まれた。そして、日一日と病人は殖えた。
 多くもない労働者が、機関銃の前の決死隊のように、死へ追いやられた。
 十七人の労働者と、二人の士官と、二人の司厨《コック》が、ピークに、「勝手に」飛び込んだ。
 高級海員が六人と、水夫が二人と、火夫が一人残った。
 第三金時丸は、痛風にかかってしまった。
 労働者のいない船が、バルコンを散歩するブルジョアのように、油ぎった海の上を逍遥し始めた。
 機関長が石炭を運び、それを燃やした。
 船長が、自ら舵器を振り、自ら運転した。
 にも拘らず、泰然として第三金時丸は動かなかった。彼女は「勝手」に、ブラついた。

 日本では大騒ぎになった。――尤も、船会社と、船会社から頼まれた海軍だけだったが――
 やがて、彼女が、駆逐艦に発見された時、船の中には、「これじゃ船が動く道理がない」と、船会社の社長が言った半馬鹿、半狂人の船長と、木乃伊《みいら》のような労働者と、多くの腐った屍とがあった。
[#地から1字上げ]――一九二六、二、七――



底本:「日本プロレタリア文学全集・8 葉山嘉樹集」新日本出版社
   1984(昭和59)年8月25日初版
   1989(平成元)年3月25日第5刷
初出:「解放」
   1926(大正15)年5月号
入力:林 幸雄
校正:伊藤時也
2010年1月26日作成
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