万福追想
葉山嘉樹

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)ハッパ穴を穿《く》つてゐるのだつた

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(例)梃でも[#「梃でも」は底本では「挺でも」]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)なか/\
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 渓流は胡桃の実や栗の実などを、出水の流れにつれて持つて来た。水の引きが早いので、それを岩の間や流木の根に残して行く。
 工事場の子供たちは、薪木にする為に、晒されて骨のやうになつた流木や、自分たちのお八つにする為に、胡桃や栗の実を拾ひ集めるのだつた。
 胡桃の実も栗も、黒くなつてゐて、石の間や流木の間に挾まつてゐると、なか/\見つけるのに骨が折れたが、子供たちは大人よりも上手に見つけて、懐に入れたり、ポケットに入れたりして、それを膨らませてゐた。
 小さな渓流で、それにかかつてゐる橋は、長さ三間位もあつただらうか。出水の時は、恐ろしく大きな音をたてて、玉石などを本流に転がし込むのだつたが、ふだんは子供たちのいい遊び場であつた。
 清水の湧き出す処などを、うまく見付けて掘ると沢蟹の小さいのを、一升も二升も捕ることさへあつた。それは天ぷらにしても、煮つけても美味かつた。
 その渓流の一部分に、トロッコの線を敷かねばならなかつた。
 電車の線路工事に必要な、コンクリ材料の砂やバラス、玉石などを、本流の川原からウインチで捲き上げようと云ふ段取りなのであつた。
 線路を敷きかけて見ると、方々に岩盤の出つ張りや、文字通り梃でも[#「梃でも」は底本では「挺でも」]動かない大きな玉石などがあつた。それはハッパをかけて取り除かねばならなかつた。
 A橋と云ふ三間位の橋の袂には、農家が一軒、天竜の断崖とA川とに足を突つ張るやうにして立つてゐた。その農家に楔でも打ち込んだやうに、小さな飯場が一つ建つてゐた。
 飯場は水の便利のいい所を選んで建てられるので、その下流よりにも沢山飯場が建てられてゐた。
 飯場があると必ず子供たちが沢山ゐるのだつた。
 だからハッパをかけたりする時は、その渓流で米を磨いだり、洗濯をしたり、胡桃を拾つたり薪を拾つたりする、飯場の女房連や子供たちに、危険を知らせ、上下流の工事場を往来する人々に、ハッパを知らせる為に、ベルを振つて、ハッパだあ、ハッパだあ、と、ハッパの済むまで怒鳴り続ける必要があつた。
 十一月中旬の麗かな一日であつた。
 天竜川中流の、峻嶮極まる峡谷地帯で一日中日照時間が三時間だとか四時間だとか云ふ地帯にも、こんないい日があるかと思はれるやうな、人の心も清々しくなるやうな一日であつた。
 A橋の十間ばかり下流、殆ど天竜川本流への流入口近くで、冴えたセットの音が、チーン、チーンと聞えて来た。
 梃でも[#「梃でも」は底本では「挺でも」]動かない玉石へ、ハッパ穴を穿《く》つてゐるのだつた。タガネとセットとの、二つの鋼鉄から出る音は、澄んだ浸み透るやうな音楽的な音を立てて、山の空気を震はし、川瀬の音と和して、いい気持に人々を誘ひ込んだ。
 それは百姓屋とそれに食ひ込んだやうな飯場の真下あたりの処だつた。
 ハッパの破片は、主として石に穿られた穴の方向に飛ぶものなので、太田は天竜川の方から上流の方を向けて穴を穿つてゐた。
 天竜川の方に石が飛ぶのならば、危険は割合に少なかつたからであつた。
 尤も全然危険がない訳ではなかつた。
 一度などは、二十数本もの導火線がシューシュー煙を吐き出してゐるのに、川舟が上流から勢よく下つて来たのには驚いた。
 天竜の川舟は、予定地に着けそくなつたら最後五丁も十丁も下流まで流れる位であつた。だから、陸からどのやうな権威を持つた人間が「止れ」と云つたところで、止まる訳には行かなかつた。
 その時などは、天竜の本流の岸に、トロッコの線を敷くためのハッパだつたので、十メートル前のトーチカ陣地から、機関銃が火を吐く、と云ふ形容だつて決して過ぎてはゐなかつた。
 私は気が狂つたやうに岸から叫んだ。
「向つ岸へ流してくれえ、ハッパ穴がそつちを向いとるぞう」
 と、無茶苦茶にベルを振りながら怒鳴つた。
 川舟の船頭も驚いた。舟を対岸の方へやるにしても、ハッパの破片は対岸深くまで飛んで行くのだつたから、完全に着弾距離外と云ふ訳には行かないのだつた。
 四人の川舟船夫たちは、底の浅い川舟の中で大騒ぎしながら、竿や櫂で川底の石をつつぱつたり、水を掻いたりして、対岸の絶壁の淵の方へ川舟をやらうと努力してゐた。が、天竜川の三大難所の一つだつたそこは、船夫たちの努力で、僅かに舟の頭を対岸に向けたまま、急流に押し流された。
 川舟がハッパを仕かけた辺から、二十間位も押し流された時、ハッパが鳴り始め、破岩が激流の河面にバラバラッと飛び込んだ。
 大きい破片は抱き上げられない位のものもあり、小さいのは安全剃刀の刃位のものまでも、水面に射込んだ。
「良かつた」
 と、私は、岩陰から川舟の行衛を隙間見しながら、ホッとしたことがあつた。

 その日も、午前九時頃まで冴えたタガネの音がしてゐたが、それが止むと、暫くして、太田が上の方からA川に沿つて降りて来た。
 手に導火線をブラ下げて、その下に大ダイが一つくつついてゐた。丁度、アケビの実を蔓ごとぶら下げたやうに見えた。
「大丈夫かい。穴はどつちを向いてるかい。さうかい、ふん、大ダイ一本ぢや詰め過ぎやしないかい、うん、大丈夫だね。頼むよ、この辺は危いからね、人通りがあるんだし、家が近いからね」
 と、私は、太田がうるさがる程、念を押した。
 太田がA川の合流点附近から、
「つけたぞ」
 と怒鳴つた。私は、橋の袂にゐて、現場の導火線から煙が上るのを見て、ベルを振り、ハッパだ、ハッパだあ、と怒鳴りながら、上流の方へ駆け、人が来ないのを見届け、又、下流の方へ駆けた。
 丁度現場の直ぐ側へ、栗や胡桃を拾ひに行つて、藪影でゴソゴソやつてゐた、太田の幼い弟たちや従弟たちも、火をつける前に見付けて、上の方の道路へ追ひ上げてあつた。
 その子供たちを、百姓家の現場とは反対側の軒下に立たせて置いて、私はそれを監視しながらベルを振つてゐた。
 パーンと云ふ風な、浅い音が現場で起つた。と同時に、パラパラッと破片が飛んで来た。その時、私の立つてゐる道に、私の直ぐ後ろ横に、下流の方から一人の子供が駆けて来た。
「危いッ」
 と、幼い足音に、私は叫んだ。
 見ると、その児の鼻の上に、破片が当つたと見えて、血が流れてゐる。
 私と並んで立つてゐた太田は、その子供が自分の従弟だと見ると、抱きかかへて、
「馬鹿が、ハッパの処へ来るんぢやないと云つてあるのに」
 と云ひながら、尻を引ッぱたいた。
「とにかく医者に早く連れて行かなけや駄目だ。見ろよ、大ダイ一本も入れるから、俺が危いつて云つたぢやないか」
 だが、怪我をした以上は何もかも後の祭であつた。
 麗らかな珍らしい秋の一日を、それまで楽しんでゐた私も、同様な気持であつただらう太田も、一度に深い憂鬱と気づかひに捕はれて、医者のゐる上流へ急いだ。
「おぢさん、何でもないよ。俺歩いて行くよ。見つともないよ」
 と云ふのであらう、未だ海峡を渡つて、内地へ来て一年にもならない、その六つになる子は太田に云つた。
 太田は幼い従弟を道に下した。
 そこで、私たちは始めて子供の傷口をよく見たのだつた。
 傷口は眉の間の所謂急所であつた。少し右の方に寄つてゐるかと思はれた。見たところ大した傷ではなく、血も、もう止つてゐた。
 子供も、もう尻を引つぱたかれないでいいのだと云ふことが分つたのと、傷も大して痛くないと見えて、ニコニコしながら、可愛いい朝鮮の言葉で、太田に何か話しかけてゐた。
 その子は全く可愛いい顔をしてゐた。殊にその下ぶくれの頬と、澄み切つた瞳とが、可愛いい上に聡明な印象を与へてゐた。
 私は言葉は分らなかつたが、その子や、その子の友達たちと遊んだものだつた。さう云ふ時、両親について来てもう長くなる子だの、内地に来てから生れた子だのが通訳してくれるのだつた。それによると、その万福と云ふ子は、見たところ以上に聡明であつた。
 私は「朝鮮人」と云ふ言葉を使はないやうにしてゐた。無論「鮮人」とは云はなかつた。が、悲しいことには、工事場には、さう云ふ言葉が、言葉そのものは仕方がないとしても、軽蔑や侮蔑の意味を含めて使はれることがあつた。私が、若い頃マドロスとして、印度あたりまで行つた時、欧米人などに、どことなく差別的に見られたりして「こいつはいけない」と思つてから、私はヨーロッパ人だから優越してゐるとも思はない代りに、インド人でもアフリカ人でも、支那人でも、朝鮮人でも、私よりも劣つてゐるなどとは思はなくなつてゐた。
 医者に行つて、手当を受けた結果、
「傷は幸に、極く軽くて、一週間もすれば全癒するだらう」
 と云ふことであつた。太田も私も心からホッとして、帰りには、その子供に菓子を買つてやり、冗談を云つてカラカつたりしたのだつた。
 その後帳場で太田に会ふ毎に、私は万福の傷の経過を聞いた。太田も忙しいので、毎日見舞つてはゐないが、「悪くなつた」と云ふ話を聞かないから、きつと、「良くなつてゐるのだらう」と云ふことだつた。
 一週間目に、私は万福の住んでゐる飯場を訪問した。
 そこは、私たちの借りてゐる農家から上流四五丁の、川原の砂つ原に建つてゐた。発電所と電車との二つの工事の労働者が集まつてゐて、この峡谷の底に五千人から七千人位の労働者と、その家族がゐたので、一つのバラック街を形造つてゐた。
 それは東京の郊外にある細民街とよく似た部落を形造つてゐた。その一部落の川岸寄りの、二番目か三番目の、通りとは名づけられないが、とにかく人の通り抜けるために出来た細長い、狭い空地に向つて、万福たちの飯場の、蓙を卸した三尺幅の出入口が開かれてあつた。
 丁度、昼食後の休みの時間を利用して、私は行つたので、食事に戻つた労働者や、その機会を利用しての友達などの往来で、バラック街は頬張つたやうに膨れかへつてゐた。
 蓙を上げて私は飯場に首をつつ込んだ。
「今日は」
 と云つて置いて、それから私は入つて行つた。外はやはりうららかないい日であつたが、飯場の中は真暗であつた。窓が無かつたからであつた。
「今日は」
 と答へがあつて、誰かが、暗い中から動いた気配がして、私の立つてゐる川砂の土間の方へ立つて来た。そして、私の立つてゐる傍を通り抜けて、私の後ろに垂れ下つてゐる入口の蓙を上げた。
 そこで漸く、飯場の中が明るくなつた。
 飯場の内部は、土間と、二つの部屋から出来てゐた。入口の方を向つて、石油箱だの、ビール箱だの、ダイナマイトの箱だのが、上手に按配して積み上げられてゐた。その各々は衣類箪笥だの、食器棚だのの役目を果してゐるのだつた。
「まあ、おかけなして」
 と、立つて来た万福の父が、腰をかがめて信州訛りで私に言つた。
「御無沙汰しちまつて。万福ちやんの怪我はどうですか」
「へえ、お世話になりました。怪我はもう癒りましたが、あれから、飯が食へなくなりましてなあ」
 私は床の低い部屋の上り口の、蒲呉座の上に腰を下しながら、不吉な予感に脅えた。
 入口を入るまでは、私は万福が快癒し、元気に遊んでゐる姿を見て、私自身も一緒に喜べるだらう、都合によつたら、感謝の辞まで「せしめる」ことが出来るかも知れない、きつとさうだ。と思ひ込んでゐたのだつた。
 無意識ではあつたが、もし、私が自分の心の中にもつと頭を突つ込んで、蚤取り眼で詮索したならば、「僕は決して君たちを軽蔑しないよ。だから君たちは僕を尊敬しなければならんぢやないか」と云ふ風な商取引きのやうな心理がなかつた、とは云へないのだ。いや、こんな心が、きつと、どこかにあつたのだらう、と私は思ふ。もしあつたとすれば、それはもう、蝦で鯛を釣るやうなものではないか。とにかく人から感謝されると云ふことは決して悪い気持ではないのだ。
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