ハッキリ云へば、いい気持なのだ。いい気持になるなと私は自分に云つて聞かせてゐる訳ではない。いい気持になれば、それに越したことはないのだ。だが、いい気持になると云ふことは今の世の中では、さうたんとあるものではないのだ。
 私はいつものくせで、その薄暗い飯場の中で考へ込まうとしてゐた。
 万福の父は、矢張り腰をかがめたまま、私の腰を下した上り口を、斜になつて上に上つた。そして、私の眼の前に、その左足を投げ出して坐つた。
「どう云ふもんでがすかなあ、先生は傷は癒つたが胃が悪くなつた、と云はれるんですがな。ひよつとすると、傷の方から来た胃病かも知れんが、それはまだハッキリは分らんと云ふんです。おでこに怪我をして胃が悪くなるちうことがあるもんでがすかなあ。御免なさい。足を投げ出したりしてゐて。これもをかしな話でしてな、堰堤の方で働いてゐる時に、上の方の切り取りから、小さな石ころが一つ落つこつて来ましてね、わしの背中に当つたんでがすよ。それから今ではもう半年になりますが、その半年の間に、頭が痛んだり、腰が痛んだり、石の当つたところが痛んだり、方々、痛い処が出きよつたですが、今になつて足がうまいこと曲らんやうになつたですわい。それでもう、わしは半年遊んで弟の世話になつて食つとるんですが、そこへまた万福が怪我をしたちう訳です。弟は何も云ひませんよ。反つてニコニコして、わしや万福に心配させんやうにしとりますが、何しろあんた、弟とわしの家内とを合せると、十人の大世帯です。弟の稼ぎと、わしの傷害扶助の六十銭とぢやあ、どうしようもありません。だからわしは組に行つて、何とかしてくれと云ふんですが、組ぢやさつぱり受けつけませんのでな。弱つて居りますんぢや」
 私は、ポケットからバットを出して火をつけ、万福の父の前にその箱を差し出した。
「どうぞ。それから万福ちやんは?」
「ここに寝て居ります。先生にはわしが背負つて行くんですが、おとなしい子でしてなあ、痛いとも辛いとも云ひませんよ。ただ、黙つて寝とつてくれますんぢや。が、何にも食つてくれんので心配でならんのですが」
 さう云つて、投げ出した足を曳きずるやうにして、体をずらした。
 万福は入口の右側の板壁に添つて、横になつてゐるやうだつた。
 私は上つて万福の顔を見ようか、どうしようかと迷つた。傷口を見る。それは傷口は癒着してゐるかも知れない。「御飯を食べなけれやいけないね」と子供に向つて云ふことも出来る。「早く快くならうねえ」と云ふことも出来る。さう云つた方が、全つ切り黙つて出て行くよりも、慰さめにはなるだらうし、私の立場としても、余り不自然ではない。だが、私は医者でもないし、看護手でもないし、救護班でもなかつたし、慰問係でもなかつた。ただの土方兼帳付けであつて、外の何者でもなかつた。云はば、省線の踏み切りにある自動ベル見たいな機能しか持たないものだつた。だから私は、私の持つてゐる極めて稀薄な人間的要素をも持て余してゐた。
 もし、人が、誰だつて構はないが、同情、博愛、共存共栄、社会主義と云ふ風な美徳を帯びて、その上、その美徳を単なる装飾の範囲から、実行の域にまで移したいと云ふ熱意に燃えてやつて来るならば、工事場には来ない方がいい。どこにも行かない方がいい、とは、私は思はないが、少なくとも工事場に来ても、法がつかないと云ふ事を発見するのが落ちであらう。

 万福は殆んど、その中に人間――尤も子供ではあるが――が寝てゐるなどと思はれないやうに、一隅に寝てゐた。
 私は、困つたことには、自動ベルであるべき筈なのに、感情を動かしてゐた。
 地下足袋を脱いで、私は飯場の蒲呉座の上に膝で上り、万福の枕頭ににじり寄つて見た。
 万福は眼を開けてゐて、さし寄せた私の顔を見てゐた。その眼は、迷ひ込んで来た小鳥の眼のやうに、元通り無邪気であつたが、何かにとまどひしてゐる風な表情があつた。
 が、その下ぶくれの可愛いい頬は、まるで病監にゐる囚人のやうに、痩せこけてしまつてゐた。六つの子供とは思はれないやうに、頬骨も顎の骨も、露骨に突き出てゐた。
 まだ六つの子供である、と云ふことを私は知り抜いてゐたが、眼の前にゐるこの子供の顔は、どうしても「子供の顔」とは思へなかつた。萎びてトゲトゲしてゐて、垢染みて、老人の、それも死に近い病人の顔に似てゐた。
 ――人間の顔と云ふものは、発育する途中では、旺盛な生命力を、目盛り見たいに表情の中に持つて居り、衰弱する場合には、死期までの目盛りを、その表情に持つてゐるものではあるまいか――
 と、フト、万福の顔を見てゐるうちに、私は考へた。
 私は万福の頭を、その為に殺したりなんかしては大変だと案じながら、静かに、静かに撫でた。
 その軟かい頭髪は、埃にまみれてゐて、私の労働に荒れた掌の、筋目の中に食ひ込むやうに感じられた。
 私はその時、悲しいとか、哀れだとか、気の毒だとか云ふ感じよりも、「困つた」と云ふ気持の方が多かつた。途方に暮れると云つた方が確かだつたであらう。
 万福は今、私がどのやうにして見たところで、私には手がつけられない状態にあつた。万福の父も同様だつた。それ等を養つてゐる安東にも、私は手を貸すことが出来なかつたし、私自身さへも、その時、私の家族――子供たちから「帰らうよ、帰らうよ」と、せがまれてゐた。
 私にはどこに「帰る」家があり、故郷があらう! 子供たちは自分の生れた処、又は、ここに来る以前の土地が故郷であつた。だが、その土地を喰み出された私たちではなかつたのか。
 万福も、きつと、労働不能に陥つたその父に、「帰らうよ、帰らうよ」と云つてせがんだのではあるまいか。その母に、泣いて訴へたことがあつたのではあるまいか。
 もし、万福がその父母に泣いて「帰らうよ」とせがまなかつたとしたら、どうだらう。そんな小さな子供にまで、「帰るところが無い」と、思ひ込ませるやうな日常の境涯に、この家族たちは置かれてゐたのだ。
 私は放心したやうな状態で、豆とヒビだらけの掌で、無意識に、万福の頭を撫でてゐた。そろつと、そろつと。
 そして私の出来ることは、ただ、それつ切りであつた。
 私は、どの位の間、さう云ふ放心状態にあつたか、とにかく、万福の父は、私がフト気がつくと、私に話しかけてゐるのであつた。もう随分、長く、いろいろと話してゐるのだと見えて、話のつながりが分らなかつた。よしんば話のつながりが分つたところで、私にはどうすることも出来なかつた。
 大体、私がフラフラの万福の容態を見舞ひに来たのは、万福の負傷や、その経過についての心づかひからだけではなかつたやうだつた。
 私自身に力をつけるためもあつたやうだ。と云ふのは、人は貧困や、負傷やのドタン場に陥ると、死に近づいてゐることのために、かへつて生命の方に向つて、あらゆる努力で手をさし延ばすからであつた。
 負傷者自身が、もう生命への気力が萎えてしまふと、今度は、側の者が、その人間になり代つても、何とか出来ないかと、夢中になるのであつた。それは理屈ではなかつた。同情や憐愍と云ふ言葉にも嵌り切らない、何か本能的のものであつた。
 ジワジワと習慣的に貧困に慣れ、習慣的に栄養不良や、栄養不足から、生命を離れて、始終眠くて堪らないと云つた風な状態で、死の方に近づいて行く人々にとつても、他の人の臨終を見ると云ふことは、その眠む気に似たものを一瞬吹き飛ばし、燃えるやうな生命の力を電光のやうに感じさせる刹那なのであつた。
 私はハッキリさう意識して、万福を訪問したのではなかつた。そんな功利的な気持ではなかつたが、……詮索すれば、人間の美しいとされてゐる行為にも、裏があるのだつた。
 万福のトゲトゲした衰へた顔を、眼の焦点を合はせる訳でもなく見守つてゐた私は、生命と云ふものを考へた。
 万福の生命は、万福と共にあるのだ。

「たうとう万福が死んだ」
 と、太田が私に告げに来た。
 私は松丸太の枕木の上に腰を下して、スパイクを抜いてゐた。太田は私と並んで腰を下して、投げ出すやうに云つた。
「可哀相なことをしたねえ。可愛いい子だつたが」
 と、私は金棒(スパイク抜きの)を、足下に転がして、
「ぢやあ、とにかく、行かう」
「直ぐに行つてくれるかね」
「今からね。何にも尽すことは出来ないかもしれないが」
 万福の飯場に行つて見ると、色紙をどこからか買つて来て、それを切り抜いてゐた。
 万福の父や母の姿は見えないで、知らない近隣の人々であつた。
 万福の、幼くして逝つたむくろは、いつか私が訪ねた時と同様に、布団の下に長くなつてゐた。

 私は型の如く線香を立て、合掌して、黙つて飯場を出た。その日もやはり天気がよく、薄暗い飯場から出た私は眩しかつた。
 陽は暖かく背中を照りつけた。
「どうする?」
 と一緒に出て来た太田が云つた。
 その意味が、私には分らなかつた。「どうする?」どうすることが出来るであらう。可哀相な万福は死んでしまつたのだ。どうして見たところで取りかへしはつかないのだつた。これからすることは、すべて生き残つた人たちの、死者に尽す礼だけなのだ。
「どうするつて、お葬式をしなければならないだらう」
「それはさうだ。が……」
 と、私と向き合つて立つた太田は、地下足袋の先きで、川砂から砂利を掘り起こしたり、ひつくりかへしたりして、それを瞠めながら何か考へてゐた。
「万福のお父さんはどこへ行つたんだらうね」と、私は訊いた。
「医者に診断書をとりに行つたんだ」
 とにかく、死人の父の意嚮に従つて葬式を出さねばならなかつたので、医者の待合室に待つてゐるだらう万福の父に相談して、それから川向ひの製材所に行つて、棺桶の板を持つて来よう、と云ふことにして、私たちは歩き出した。
 飯場街で飼つてゐる豚だの、山羊だの、鶏だのは、平和に鳴いてゐた。
 夏の大洪水で流された飯場の跡は、綺麗な砂浜になつてゐた。そこでは豚の児を引つ張り出して、万福位の、未だ学校に上らない年輩の子供たちが、その耳を掴んで、丸つこい背に乗つて遊んでゐた。豚の児が水溜りに入ると、子供たちは足を上げて水に濡らさないやうにしたり、水溜りから追ひ出すために、外の子たちが竹の棒でつつついたりしてゐた。
 外の一群は山羊の仔と角力をとつてゐた。
 山羊の仔は迷惑がつて、逃げようとするのだが、周りに一杯子供たちがゐるので、逃げることも出来ないで、のび上るやうに首を上げて、メーと鳴いたりするのだつた。
 その砂浜は、幾度飯場を建てても、洪水の時に必ず流されて終ふので、今では、誰も諦めてしまつて、子供たちの運動場になつてゐた。
 私たちは、そこを通りかかつた時、云ひ合はしたやうに、足を止めて、その戯れに眺め入つた。
 子供たちの中には、太田を見付けて、
「おぢさん」と駆けて来て、半天の裾にブラ下るものもあつた。
 太田は、子供にブラ下られると、その頭を撫でてやつた。そして、馬が蠅を追つぱらふ時のやうに首を振つた。
 私もそのやうに首を振りたかつた。もし、万福の死の事が、そのために忘れられるのだつたら。
 私たち二人は、そのことについて、一言も云ひはしなかつたが、万福の死について、申し訳が無い、と云ふことを、心の中に深く蔵ひ込んでゐた。それが直接の原因であらうと、全く関係がなからうと、とにかく、ハッパの石に当つて怪我をしたのだ。その後一月ばかりで「飯が食へなくなつて」死んだのであつた。

 陽は汗ばむほど暖かかつた。
 山羊と角力をとつてゐる子などは、汗をかいて、汚れた手で拭くので、真つ黒になつてゐるものもゐた。
 いつまでも子等の遊びに見とれてゐる訳にも行かないので、川原から断崖の下の道に上つて、私達は上流に向つた。
 飯場街と飯場街を繋ぐところに、やはりバラックの商店街があつた。
 そこは停留場の真下三百尺位の、石崖の下で、発電所に近かつた。
 そこで、私たちは太田の父に会つた。

 太田の父は、何か憤つたやうな声で、太田に話しかけた。
 私は一歩避けて、二人の話のすむのを待つてゐた。が、二人の話
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