し、社会人類、国家に尽す方法も持たないし、詰り人生の食ひ潰しであることを自認したのだつた。
 自認すると同時に、他からもさう認められてゐたのだから、結果は明白だつた。
 そこで、子供たちには、子供たちが「面白い」として喜ぶことを、させてやらうと思つた。と云つても、収入が途絶してしまつてゐるのだから、その範囲は極めて狭く局限されるのだつた。
 その日の釣り兼蝗取りも、その催しの一つだつた。これなら金がかからないで、子等の弁当のお菜が取れる。その上川魚は頭ごと食へるから、第二の国民の骨骼を大きくする為のカルシウム分もフンダンにある。外の栄養分は知らないが、悪いことはないに決つてゐる。
 そんなことはどうだつて、さうだ、どうだつてよくはない。が、それよりも、釣りをすることを子供たちが、果して喜んだかどうかなのだつた。私が居なくなつて、子供たちが成長してから、その日を快よい、生き甲斐のある一日として思ひ出の種にし得るかどうか、が問題であつた。
 このだらしのない、子等に対して申し訳なく、相済まなく思つてゐる父の心が、そんな釣りの半日で子供の心に通じるかどうか、これは寧ろ逆効果でありはしないか。
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