又早く出かけなけゃならないのにねえ」
 おふくろは弱い声で云った。「お母さんも眠れないんですか。わしは今までグッスリ眠ったんですよ。腹の具合は少しはいいですか?」
(腹の具合が良かろう筈がねえじゃないか、医者にもかけねえ、薬も飲まさせねえ、軟かい滋養分も食べさせない、その代りに子供の守をさせてる! 地獄だ! 自分で看護婦が入用な、垂れ流しの老人に、子供の守をさせる。死ぬまで車を引っ張る馬のように、死ぬまで苦労を背負わせるんだ。子供が七輪の炭火の上に倒れても、よう起さないで泣き出してしまう老人に、――畜生! 俺は一体どうなればいいんだ。ああ、――明日も早いから――とおふくろは云ってる。明日俺の出かけるのは、工場の前のピケッチングじゃないか! ふうっ!)
 彼は、音のしないように髪の毛をひっ掴んだ。そして憎ったらしく、検束者をでもするように、やけに引っ張った。髪の毛は汗でねばねばしていて、ふて腐れたように手にザワザワ捲きついて来た。
 ――吉田さん、吉田さん。――
 暑苦しいために明けっ放した表から、誰かが呼んだ。
 吉田はハッとした。
(来やがった。遂々来やがった。何時だ、三時だな、畜生! 寝込みを踏み込みやがったな)
 彼は、本能的に息を詰めた。そして耳を兎のようにおっ立てた。
「どなた?」
 おふくろが、喘ぐように云ったのと、吉田が、「しっ」と押し殺すような声で云ったのと同時であった。
(為様がない、おしまいだ。これで片がつくんだ。奴等が一段ずつ位と月給が上って、俺たちゃ立ち腐れになるんだ)
「誰だい?」
 彼は、大きな声で呶鳴った。
「中村だがね、ちょっと署まで来て貰いたいんだ」
――誰だい――と呼ぶ吉田の声が、鋭く耳を衝いたので、子供が薄い紙のような眠りを破られた。
「父ちゃあん!」
 子供の食い取ってしまいたいような、乳色の手が吉田の頸にしがみついた。
「おお、いい子、いい子、泣くんじゃねえ。誰が来たって、どいつが来たって、坊を渡すこっちゃねえからな」
 彼は、子供を確り抱きしめた。そしてとりたての林檎のように張り切った小さな頬に、ハムマーのようにキッスを立て続けにぶっつけた。
 M署の高等係中村は、もう、蚊帳の外に腰を下して、扇子をバタバタ初めていた。
「今時分、何の用事だい? 泥棒じゃあるめえし、夜中に踏み込まなくたって、逃げも隠れもしやしねえよ」

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