生爪を剥ぐ
葉山嘉樹

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蝸牛《かたつむり》

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(例)全日本[#「日本」に「×」の傍記]
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 夏の夜の、払暁に間もない三時頃であった。星は空一杯で輝いていた。
 寝苦しい、麹室のようなムンムンする、プロレタリアの群居街でも、すっかりシーンと眠っていた。
 その時刻には、誰だって眠っていなければならない筈であった。若し、そんな時分に眠っていない者があるなら、それは決して健康な者ではない。又、健康なものでも、健康を失うに違いない。
 だが、その(時刻)は眠る時刻であったが、(時代)は健康を失っていた。
 プロレタリアの群居街からは、ユラユラとプロレタリアの蒸焼きの煙のような、見えないほてりが、トタン屋根の上に漂うていた。
 そのプロレタリア街の、製材所の切屑見たいなバラックの一固まりの向うに、運河があった。その運河の汚ない濁った溜水にその向うの大きな工場の灯が、美しく映っていた。
 工場では、モーターや、ベルトや、コムベーヤーや、歯車や、旋盤や、等々が、近代的な合奏をしていた。労働者が、緊張した態度で部署に縛りつけられていた。
 吉田はその工場に対してのある策戦で、蒸暑い夜を転々として考え悩んでいた。
 蚊帳の中には四つになる彼の長男が、腐った飯粒見たいに体中から汗を出して、時計の針のようにグルグル廻って、眠っていた。かますの乾物のように、痩せて固まった彼の母は、寝苦しいものと見えて、時々溜息をついていた。
(一体どうするのが、俺には一番いいのだろう)
 彼は、暑さにジタバタする子供の寝顔を、薄暗い陰気な電燈の光に眺めた。
(一番いいのは、俺が首を吊ってしまうことだ!)(だが此年寄のおふくろは? 三人目の子供を産むために、下の児を連れて県病院の施療病室にいる女房は? 此二人の可愛いい男の子と、それから今度生れる赤ん坊とは? それはどうなるんだ? どうして生きて行くんだ? オイ!)
 吉田は大きな溜息をついた。両方の手で拳を固く拵えて、彼の部厚な胸を殴った。
(だが、何とも為方はないさ。俺がよしんば死なないにした処で、――今度の事――で監獄に打ち込まれるとしたらどうだ! 死んだのと同じことになるじゃないか。いっそのこと……)
「おまい、寝られないのかい?
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