の中学もすばらしく大きい校舎と、兵営のような寄宿舎とを持つほど膨張した。
中学は山の中にあった。運動場は代々木の練兵場ほど広くて、一方は県社○○○神社に続いており、一方は聖徳《しょうとく》太子の建立《こんりゅう》にかかるといわれる国分寺《こくぶんじ》に続いていた。そしてまた一方は湖になっていて毎年一人ずつ、その中学の生徒が溺死《できし》するならわしになっていた。
その湖の岸の北側には屠殺《とさつ》場があって、南側には墓地があった。
学問は静かにしなけれゃいけない。ことの標本ででもあるように、学校は静寂な境に立っていた。
おまけに、明治が大正に変わろうとする時になると、その中学のある村が、栓《せん》を抜いた風呂桶《ふろおけ》の水のように人口が減り始めた。残っている者は旧藩の士族で、いくらかの恩給をもらっている廃吏《はいり》ばかりになった。
なぜかなら、その村は、殿様が追い詰められた時に、逃げ込んで無理にこしらえた山中の一村であったから、なんにも産業というものがなかった。
で、中学の存在によって繁栄を引き止めようとしたが、困ったことには中学がその地方十里以内の地域に一度に七つも
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