びかかった。
 小倉は、かいつまんで昨夜の困難な航海から、船長の態度から、三上の行為から、宿屋へ――曖昧屋[#「曖昧屋」は底本では「瞹昧屋」と誤記]《あいまいや》とはいわなかった――泊まって、凍りついた服をかわかして、けさまでかわくのを待っていたこと、三上は、黙って、宿を先へ出て、宿の者へは一足先へ船の伝馬で帰るからといい置いて行ったこと。あわてて飛んで出て、波止場へ来たときには、もう三上は影も見えなかったこと。船長はどんな措置をとるか、打っちゃってはとても置かないだろうということなどを、簡単に、しかし要領を摘まんで話した。
 セーラーたちは黙って聞いていた。そうして、三上が一足先へ出て、まだ帰って来ないということを、小倉ほどに心配しないのみならず、むしろそれをひどく痛快がった。
 「いっそ本船へ乗って逃げたらおもしろかったな」などと茶化しさえした。一向だれもその事に対して「こうしたらいいだろう」という意見を持ち出す者はなかった。だれもが、その単調でない、奇抜な話を聞いて、その話と、事件とに満足してしまった。
 小倉はここでもまた彼が事柄をあまり簡単に見過ごしていたこと、今では彼|一人《ひとり》だけが、当の責任者に転化したことを痛感した。
 小倉は、非常に善良ではあるが、意志の弱い、そしていわゆる冷静な、分別のある若者だった。それで従っていつでも「事なかれ主義」であった。その逃避的な彼が、旋風的事件の中心に巻き込まれたのだから、たまらなかった。彼は何をどうしていいか、自分自身が何であるか、一体全体どうしたらいいんだか、さっぱり一切がわからなかった。
 だれもがそれまで打ち明けてもいないのに、いつでも、その人間の最も重大な秘密なことになって、自分の手で収まりがつきかねそうになると、だれもが、決して普段それほど親密でもないように見える、藤原へ、相談を持ちかけるのがきまり切った例になっていた。小倉も、この例によって、藤原へ意見を求めようと決心した。
 藤原は、今まで自分が中心になっていた、その話から、避けて、一方のすみで、黙ってその事件の話を聞いていた。そして、煙草《たばこ》を「尻《しり》からヤニの出る」ほどに、やけにふかしているのだった。
 「藤原君。君はどうしたらいいと思うかい」と、小倉は藤原と向かい合って腰をおろしながらきいた。
 「よくはまだわからないけれど、僕の知ってる範囲では、君にも、三上君にも何らの責任はないと思うよ」と彼は答えた。
 「そうだろうか、だけど、三上は十円無理じい見たいにして借りたもんなあ。それに、昨夜《ゆうべ》は帰らないで、今日《きょう》は伝馬をどっかへ持ってっちゃったしね。僕は今、一切が僕に責任がかかって来やしないかと思って心配してるんだよ、そら僕には責任があるんだけどね。どうしたらいいだろうか、船長が帰ったら、すぐにあやまりに行ったらどうだろう、ね」
 小倉は途方に暮れていた。彼はその事柄が帳消しになるためなら、今から裸になって、海へ飛び込めといわれれば、そうすることの方をはるかに喜んで、かつ安心したであろう。彼は「これほどの問題が、まだ片づかない」という、宙ぶらりんの状態であることを極度に恐れた。彼は、この問題が、「いつかは現われるが、まだいつかそれはわからない」ような状態で、一、二か月も続くとすれば、彼は自分と三上との二つの行為をくるめて、道徳的にも、法律的にも――もしありとすれば――物質的にも、一切合切を自分で責任を背負った方がどのくらい楽だったかしれなかった。
 「おれはもう、これが三年越し引き続いた事柄のように考えられる」小倉は、ヒステリーの女のように伝馬の事以外から頭を持ち出すことができなかった。
 「船長にあやまりに行く? それもいいだろう。だが、お前、何を一体あやまるつもりなんだい。雇い入れもしないボーイ長の負傷を打っちゃらかしといて、自分だけは、夜中に上陸したことをかい。難破船のそばをスレスレに涼しい顔をして通過したことをかい。あやまる理由と、事柄とがあるなら進んであやまるがいいさ。だがあやまることのない時にあやまるのは、自分の正しさを誇示することになるか、または、単なるオベッカに止《とど》まるよ。そんなに君あわてることはないだろう。事の起こりから、終わりまで、冷静に考えて見たまえ。勝敗は別として、理由の正邪はどっちにあるか、すぐわかることじゃないか。港務の許可なしに夜陰に乗じてコッソリ上陸したり、検疫前に上陸したりすることは、よし、どんな凪《なぎ》の晩の宵の中であっても悪いことに相違はないだろう。だから順序として、その点からまずあやまるべきだろうよ」
 藤原は、まるっ切りおれとは違った見方をしてる。だが、あれも一つの見方だ。随分乱暴な見方だが真実の見方だ。どうだろう。ほんとうに、ほんとうのことをやってもかまわないだろうか。と、小倉はまだ考えを決め得ずにいるのだった。
 「藤原のいうことは、昨夜《ゆうべ》の女のいったところと、どこか似てるところがあるぞ」と、小倉は、この時フト思った。「あの女は宝玉だ! だが、今はそれどころじゃない、だが、あの女がおれのことを『三上さんよりも穀つぶしよ、あんたは』といったっけなあ、だがそれや全くだった。おれはどうだ、自分のことさえ自分で考えがまるっきりつかないじゃないか、三上は一人で立派にやって行った。おれには、おれの頭にそむいて、尻尾《しっぽ》を振るブルジョア的の取引気分があるんだ。それが、すっかり、おれを台なしにするんだ、おれはなぜ藤原君のいうように、頭の命ずる通りに動かないのだろう。ああ、やっぱりおれはなめくじなんだ! おれは、労働者階級の悲惨を、決断と勇気と犠牲のないことに帰しているが、就中《なかんずく》、このおれがその中の最なるものだ。労働者階級を裏切る唯一の卑怯者《ひきょうもの》の典型を、おれはおれ自身の中に見いだした。おれは、思想として全体を憤慨する前に、おれ自身の恥さらしな、憶病者の、事大主義者の、裏切り者の、利己主義者の、資本主義の番頭のおれを、まず血祭りに上げねばならぬ。おれは、おれの村を、ブルジョアの番頭になれば、救えるという謬見《びゅうけん》を捨て去るべきだ。おれの救わなければならないのは、おれの村だけじゃなくて、この地上の一切だ」
 小倉は元気よく、まるで今にも、ブルジョアに出っくわしさえすれば飛びつきそうに、こう考えたが、それは彼には絶対に不可能な事であった。彼は、依然事大主義者だった。一切が腐ってしまっても、円《まる》くさえあればそれで、「安心」なのだった。
 小倉はその性格が煮え切らないところから、この事件の進展に対し、何らの役目を勤めることのできない一の木偶《でく》の坊《ぼう》に過ぎなかった。
 三上が船長に与えた、侮辱は、下級船員全体への復讐《ふくしゅう》の形を船長によって取られた。
 そして、この事が、ここに述べるところの、同盟|罷業《ひぎょう》を惹起《じゃっき》した。ブルジョアの番頭対、プロレタリア! 船では、ブルジョアは決して傭《やと》い主《ぬし》としてのその姿を労働者の前へ現わさなかった。

     二三

 三上は、伝馬を押して、一度|神奈川《かながわ》沖まで出たが、また引きかえして、堀川《ほりかわ》へはいった。彼は神奈川沖へ出た時に、伝馬にペンキで書かれてあった万寿丸を、シーナイフで削り取ってしまった。
 彼は、翁町《おきなまち》の、彼が泊まりつけのボーレンの、サンパンのつながれる場所へ、その伝馬をつないだ。そして、小林という、そのボーレンへ、のこのこ上がって行った。
 ボーレンのおやじは、笊《ざる》のような彼の唯一の財産なるサンパンに、チャンス取りに泊まってる宿料なしの水夫を船頭にして、沖へとチャンスを取りに出かけた留守であった。
 おばさんはいた。下手《へた》な田舎芝居《いなかしばい》の女形《おやま》を思わせる色の黒い、やせたヒョロヒョロの、南瓜《とうなす》のしなびた花のような、女郎上がりのおばさんだった。一口にいえば「サンマ」のおばさんだった。このおばさんはいた。
 このおばさんはおやじのおかみさんではなかった。おやじの世話で船に乗って、今外国船に乗って、ここ四年ほど前ハンブルグから、近いうちに帰るという手紙と、金二百円とを送ってよこした水夫の、おかみさんだった。
 そのおかみさんが、今帰るか、今帰るかと待ってるうちに、二百円と一年とが消えてなくなってしまった。そこで、三年ばかり前から、やもめの、ここのおやじのところへ、飯たきに来て、亭主の帰るのを「網を張って」待ってるのであった。
 「まあ、三上さんだったわね。どうしたの、いついらしったの?」
 三上が、のっそりはいったのを見たおばさんは、長火鉢《ながひばち》の前に吸いかけの長煙管《ながぎせる》を置いて、くるりと入り口の方を振りかえって、そういった。
 「おやじはチャンス取りか」三上はブッキラ棒にきいた。
 「ええ、相変わらず、急いでるの? それともゆっくりできて?」とおばさんはきいた。
 「急がねえよ、上がらしてもらおう」といって、彼はもうそこへ上がってるんだったが、長火鉢の前の座ぶとんの上へ「上がらしてもらって」おばさんの長煙管で、スパスパと煙草《たばこ》を吸い始めた。
 「随分ごぶさたね、三上さん。あっちにはこんなにごぶさたしやしないでしょうね。おこられるからね」
 「真金町《まがねちょう》? 毎航海さ、おやじはおそくなるだろうね。今幾人いる」
 「十一人、暮れに迫って、口はないし、はいるところはないし、おやじさん、困っててよ」と指で丸をこしらえて見せた。十一人の船員たちが今休んでいるのであった。
 「おばさんのご亭、まだ帰らないかい?」三上はきいた。
 「帰らないよ、まだ。向こうで髪の毛の赤い、青い目の女房でも持ってるだろうよ」
 「そのつもりで浮気をしてると、えらいことになるぜ。ハッハハハハ」
 「相手さえあればね。ホホホホホ」
 「僕は下船したんだから、当分また厄介になるよ。頼むよ、いいかい。チョッと出かけて来るから、おやじが帰ったらそういっといとおくれよ」三上が靴《くつ》をはいてると、
 「そして荷物は? 小屋? おやじさんこのごろ工面がよくないんだから、十でも十五でも入れないと、だめだよ。わかってるね」と、おばさんは、だめを押した。前金を十円か十五円は入れなけりゃ、とても置かないというのであった。
 「大丈夫だよ。そんなこたあ、いうだけ野暮《やぼ》さ。ヘッヘッヘヘヘヘ」三上は表へ出て行った。
 彼は近所の質屋へ行った。それは彼の常取引の質店であった。
 「いらっしゃい、しばらくで、お品物は?」主人はきいた。
 「実はね。品物はここまで持って来られないんだが、二日だけ、伝馬《てんま》で金を借りたいんだがね。ボースンが、融通してもらったところへ、現金を返すんだが、それが今足りないんだ。船は今ドックにはいってる××丸だから、伝馬を泛《うか》してあるんだ。それで、二日ばかり借りたいというんだがね。利息はいくら高くてもかまわないってんだ。どうだろう。見に行ってもらえんかね。そこにつないであるんだが」三上は、これを昨夜伝馬に乗る前から計画していたのであった。そして彼は、その計画を完全に信頼していたのであった。
 「伝馬じゃちょっと困りますね。蔵《くら》にはいりませんからね。それに船の伝馬じゃなおさら、何とも仕方がありませんね。どうぞ、それはまあ、何かまた別な品ででもございましたら」主人は一も二もなく断わってしまった。
 三上は、驚いた。彼は驚いたのである。彼は、まだ今度の事ほど綿密に、長い間かかって、企てたことはなかった。それは室蘭《むろらん》に碇泊《ていはく》しているころからの計画であった。その計画は、サンパンを占領するという点までは、彼の計画どおりに進行したのである。であるのに、最後の点に至って、これほど何でもない問題が拒まれるという、その事が彼を驚かした。「だが、この家は伝馬を扱うのになれていないと見える」と、すぐ、
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