みを得ようとしていた。それは全くだ」
「ほうら、白状してしまったわ。あなたはね。高々船長ぐらいになって、三上さん見たいな人をいじめて、ご自分はまた、自動車か何かに乗った耄碌爺《もうろくおやじ》からわけもわからないことをいっていじめられたいの。およしなさい。仰向いて唾《つば》を吐くのはやめるものよ。だけど、あんたが船長になると、今度は、ほんとに純粋な生娘が、あんたに惚《ほ》れてよ。そして、船が着くたんびに、あんたに、ダイヤモンドの指輪を『愛の表象』としてねだることよ、ホホホホホ。それは、あんたに幸福をもたらすわね。私みたいな、ええ、私は淫売《いんばい》よ、それが、どうしたっての、小倉さん、あんたは淫売よりも、一生涯を通じての娼妓《しょうぎ》がお好きな一人《ひとり》でしょうね、ホホホホ。だけど、あんたは、さっき『僕が愛してると同じように僕を愛してる女がある』っていったわね。私、私、私だってだれにも劣らない愛を持ってるんだわ、だけど、私は前科者なのよ。ホホホホホ。世の中の人間は、自分を縛ってる鉄の鎖が、人をも縛ってると思うと、安心して自分の鎖が軽くでもなるんだと見えるわ。それはね、奴隷《どれい》道徳の鎖よ。因襲の鎖ってのよ。だけどね、小倉さん。私には、そんなことはないのよ。
私そんなこと、夢にも思わないんだけれど、たとえばね、もしか、私があんたを愛したくっても私が淫売ならその資格がないとでも、あんたはいいたいんだわね。いいえ、そうよ、ま、黙ってらっしゃい」彼女は、小倉が何もいおうとしてもいないのに、あわてて彼のいうのをさえぎった。
「私はあんたに愛させてくれるように、頼む資格もないと思ってるのね。だけどね、小倉さん、私は幻の階段を追うような利己主義者は、私の方でいくら頼まれてもいやなのよ。それは意気地《いくじ》なしの考える生き方なんだもの。それは私たちが、こんな恥ずかしい商売をするよりも、もっともっと恥ずかしい、堕落した、外道《げどう》のやり口よ。
だけどもね、小倉さん、もしあんたが、そうでなかったら、もしあんたが立派な人間で階段なんぞ認めない人だったら、私は、私は、あんた見たいな人に初めて会ったことを白状してよ。そして、私は、あんたを、世界じゅうで一番強い、弱い者の味方としてなら、私はあんたを愛したいの。だけどもね、何だって私はばかなんだろう。あんたにはいい人があったのね、私、私、私だって、私はね、小倉さん。あんたが高等海員の試験を受けて、船長に立身するように、試験を受けてでも、願ってでもなく、この商売に、むりやりにほうり込まれたんだわ。私のいうことがわかって、ホホホホホホ。私のいうことはね、こんな商売してても、それは私の知ったことじゃないってつもりなのよ。あなたが船乗りをしてるのも、私がこんな汚らわしいことをしてるのも、性質は同じなのよ。そしてね。私の方が、ほんとうは、もっと尊敬してもらわなければならないほど苦痛な部分を引き受けてるのよ。わかって? 人間が生きるためには、どんな苦痛でも忍ぶもんだわ。生きるためには、より早く死ぬ方法までに、飛びつくものよ。
私なんぞ死ぬまでに、ほんとに自分のしたいと思ったことの、反対のことばかしさせられてとうとう死んじゃうんだ。自分の思う通りになることは一つだってありゃしないんだわ。私はね初めはね、あんたをただのお客と思ったの、そして次には坊っちゃんと思ったの、その次はほんとに物のわかったおとなしい人だと思ったの、そしてね、今ではね、あなたは、そうね、何だろう、何といえばいいだろう、私のおとうさんだわ。私を産んだ、私の知らない、ほんとの私のおとうさんだわ、ホホホホホホ……私おとうさんに……」
二一
その夜は全く悪魔につかれた夜であった。人間の神経を鏝《こて》で焼くように重苦しい、悩ましい、魅惑的な夜であった。極度の歓《よろこ》びと、限りなき苦しみとの、どろどろに溶け合ったような一夜であった。
三上にも、小倉にも、それは回視するに忍びないような、各《おのおの》の思い出を、その夜は焼きつけた。それは永劫《えいごう》にさめることのないほどの夜であるべきであると思われた。それほどその夜は二人《ふたり》にとって大きな夜であった。
人間の一生のうちに、その人の一切の事情を、一撃の下《もと》に転倒させるような重大な事件があり、社会においては、全社会を聳動《しょうどう》せしめるような大事件がある。そして、それらの事件が必ず夜か昼かに行なわれ、その事件とはまるで関係なしに、夜になったり、朝になったりすることは、個人として、社会として、その事件に当面したものに、ばかげた、不思議な感じをきっと起こさせるものだ。中には「ああ、おれにとって、あれほど重大なことがあったのに、どうだろう、夜が明けた」と思わせるのである。
三上と、小倉とは、各《おのおの》が、そんなふうな感じをもって、朝の六時に起きた。二人ともはれぼったい目をしていた。
一夜は明けた。そして、重大なる事件は未解決のままに、夜を持ち越して、明けたのであった。それは、一夜を持ち越したために、事実の形を千倍もの太さにしてしまった。一夜――五時間――伝馬繋留《てんまけいりゅう》――水夫睡眠――何でもないことであった。それは全くきわめて平凡な詰まらないことであった。
ところが、それの舞台を、社会から、万寿丸にまで縮めると、問題が由々《ゆゆ》しく大きくなるのだった。
とまれ、小倉は「階段」のことは忘れたにしても、一応は、本船へ帰ってから、万事を解決した方がいいと考えた。ところが、三上は、それはばかなやり方だ、と考えた。そこに、三上と小倉との差違があった。
二人はその家を出た。そして、海岸を伝馬のある方へ逆に歩きながら、その事件の締めくくりについて考え合った。[#底本では「。」なし]
「おらあ帰らんよ」と三上は、さっきからいい続けていた。
「でも帰らなきゃ様子がわからないじゃないか」これは小倉の言い草だった。
「様子はわからんでもいいよ。あの伝馬をたたき売るか、質に入れるかして、おれたちはどっかへ行った方がいいよ」三上は自分の計画を初めて口に出した。
「でも、そいつあ困るなあ。僕は海員手帳が預けてあるし行李《こうり》もあるし、そいつあ弱るよ」小倉は全く困るのだった。彼は船長免状を取る試験のために、二度も沈没したりして、それに必要な履歴が実地として取ってあった。それは海員手帳に記入されてあった。
「だから、さようならって僕がさっきからいうのに、いつまでも君がぐずぐず、ついて来るからよ。君はサンパンを雇って帰れ。そして、三上が伝馬を盗んだとでも、何とでもいって、置けばいいじゃないか。僕はこれを売って、どこかへ行くんだから。行李や、手帳なんぞほしくもないや。早く君は帰れ!」
三上はクルッと反対の方を向いて、桟橋の方へ歩を返した。小倉も無意識にそれに従った。
「だって、すこしも君だけが悪いことはないじゃないか、大体船長が無理なんじゃないか、だから、帰ったって何ともないよ。帰った方がいいよ」小倉は、しきりに穏便な方法をとることを三上にすすめた。
「何でもかんでもいやだよ、おれは。もし帰る気になったら、出帆間ぎわに帰る。それまでおれは隠れてて船の様子を見ることにするよ」
彼はこういってズンズン歩いて行った。
小倉は夢でも見続けているように、ボンヤリしながら、三上のあとから無意識に歩いた。
三上は波止場に来て、昨夜つないだ船の伝馬にヒョイッと飛び乗った。小倉も乗ろうとすると、手を振って「みんなに、出帆間ぎわにこれ――といって伝馬を指さして――で帰るからといっといてくれよ。なあ」といいながら、グーッと波止場を押して、離れてしまった。
小倉は失心したようにたたずんでいた。
三上は、その五人前もあるような腕に力をこめて橋の下をくぐって見えなくなってしまった。
「なるほど、三上は帰れないはずだ。船長を脅《おど》かしたんだもんなあ、それを帰れといって、昨夜《ゆうべ》一晩泊まった、おれは何という白痴だったんだ。三上は、たとい理由があろうがあるまいが、どのみちやッつけられるに決まっていたんだ。三上は、伝馬を質に入れるなんて、やつ一流の計画を立てて行っちゃった。が、それがどんなこっけいなやり方であろうが、やつがのこのこ船へ帰るよりははるかにましなこった。知っていて、陥穽《おとしあな》に首を突っ込むにゃ当たらないもんなあ」小倉は行く先を忘れた田舎者《いなかもの》のように当惑げにそこへ突っ立っていた。彼の役割は、この上もなく奇妙な、こっけいないいようのない不思議なものになって来た。
「船の伝馬に乗って来て、サンパンをやとって帰る! 一体どうしたんだ。そしてこの責任は、三上と僕とに、あるんだからなあ。どうなるんだ、一体。ままよ! 帰って見れやどうにかなるだろう」
彼はサンパンをやとって、万寿丸へ行くように頼んだ。
「万寿はいつはいったんだい」と虱《しらみ》小屋から、はい出した兄弟がきいた。
「昨夜《ゆうべ》おそくよ」彼は答えた。
「けさここへ纜《もや》ってあった伝馬は、万寿のじゃなかったかい」と、船頭はきいた。
「こいつらも知ってら。へ、知ってるはずだ。七時だもんなあ。だが、一体|昨夜《ゆうべ》のことは、ほんとにこのおれが経験したこったろうか、それとも、……全く不思議だったなあ」小倉は昨夜の女のことを考えていた。彼女は賢いそして「純潔」な女だった。
二二
小倉は万寿丸へ帰った。当番のコーターマスターは、梯子《はしご》をのぼり切ると、すぐに、小倉を取っつかまえた。
「どうしたんだい。心配したぜ、昨夜は、流されやしなかったかって。そして伝馬はどうしたんだ、やっぱりやられたのかい」
船に残った者は、なるほど一切の事情を知らないはずであった。そして、サンパン止《ど》めくらいの荒れた夜中のことだから、伝馬をやられたために、夜帰れなかったんだと、船員たちは勝手に想像して気をもんでいたのだった。「伝馬は、船長を上陸させて置いて帰りに、橋をくぐる時に、打《ぶ》っつけて、こわれた――それほど古くも弱ってもいないんだが――といえば、船員たちには、どうにかこうにか、三上が帰って来ないで、サンパンの船頭がしゃべらない限りわかりはしないんだが、さてそれでは三上はどこへ行ったということになるし、何も隠し立てする必要もないから、すっかりぶちまけた方がいいだろう。それで悪かったら、またその時のことだ」と、小倉はとっさの間に考えた。
「ナアに、やられやしないんだよ。妙なことになっちまって困ったんだよ」小倉はほんとに、今そのことについて、口を切って「実際これはおれの考えてるように簡単に片のつく問題じゃない、全く困ったことだ」ということを痛切に感じた。
「どうしたんだ。一体、そして三上は?」
「三上が伝馬で、けさ帰って来てるはずなんだよ」小倉は、三上が伝馬を売り飛ばすか質に入れるかするといった、その、とても実現できそうもない、彼の計画だけはいうまいと決心した。
「冗談いっちゃいけない。だれも帰って来やしないぜ」
「それじゃ、おもてでよく、すっかりその事情をくわしく話そう。ちょっと困ったことが起こったんだ。船長と三上とがけんかしたんだ。それを、今おもてで話そう。皆いるかなあ」小倉はこういいながら、もうおもてへのタラップを降りて、駆けて行った。
おもてでは、ボースンから、大工、水夫たち、全部が、いつでも入港のできるように、準備を整えて、船長の帰るのを待っていた。それよりももっと、三上と小倉との消息について待ち切っていた。
「どうも済まなかった。ただいま」と叫びながら小倉はそこへ駆け込んで来た。
「どうしたい三上は」
「さては女郎買いをしやがったな」
「伝馬で帰ったのかい」
「うまくやってやがらあ」
各人が考え、想像していたことの最初の言葉が、彼のまわりに、桟橋から船に落ちる石炭のように轟然《ごうぜん》と、同時に飛
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