に得ながら見入っていた。狂犬の口をおおう泡《あわ》のようなおそろしい波浪と、この夕暗《ゆうやみ》とに、あの船はのまれてしまうんだ。彼は自分が二度も沈没に際会した時の事を思い浮かべては、その難破船に射込むような目を投げていた。
 その小さな五百トンぐらいの小蒸汽船は、北海道沿岸回りの船らしかった。今やその煙筒からは燃え残りの煙草《たばこ》ほどの煙も出ていなかった。汽罐《きかん》に浸水したのはもうずっと早いことだったろう。そのマストの下の方には、桟橋に流れかかったぼろ布のように帆布が、まといついていた。汽罐に浸水してから、どこかのカバーでもはずしてマストに縛りつけたものであろう。わずかにデッキの上でバタバタと、その切れっ端《ぱじ》が洗濯《せんたく》したおしめのように振れていた。
 それにしても船員は、ブリッジにも、マストにも、デッキにも、どこにも見えなかった。津軽海峡を越す時に命を捨てて、ボートででも本船を捨てたのであったのかもしれない、または、その各《おのおの》の室に凍えたからだを、動揺のままに、お互いに打《ぶ》っつけ合ったり、追っかけ合ったりして、楽しみのなかった生前の労働者の運命をの
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