《おき》で鍛えた腕で、わきを押した。
 しかし、彼らは二人とも、本船を離れるが早いか、これはむずかしいと直感したのであった。櫓は、振り回す鞭《むち》のようにしわっても、伝馬は、港口から、流れ出る潮流に押し流されて、すこしも進まないのであった。で、彼らは、港口までは、逆流を利用しようと決心した。そこで、船首を本牧《ほんもく》の方へ向けた。伝馬は進んだ。しかし、それは激流を横ぎるような作用と共に進んだのであった。彼らは、本船を離れて三十分もたったころ、どこに本船があるかを、片方の手で額の汗をぬぐいながらさがして見た。
 本船は、黒く、小さく、港口の方に見えた。
 彼らは流されつつあることを知った。しかし、彼らは、彼らの持っている最大の力以上は出せなかった。その上彼らは三十分全力を尽くしたのだ。彼らは、その潮流と、その風とに到底打ち克《か》つことができないということをさとると、ぐっとその能率を引き下げた。そして、流れない程度にだけ押して、再び船首を横には向けなかった。
 一切の物がその息を潜め、その目をつぶっている。その時に、その何物も見得ない暗《やみ》の中で、懸命に波浪と潮流とに対抗することは、その運命を、牢獄《ろうごく》内に朽ちしめるように決定された、無期徒刑囚のような神経になりおおせた彼らであっても、なし得ない辛抱であった。
 ことにそれは、この闇《やみ》の中に、ボンヤリすわって時々、「シッカリしないか」とだけ怒鳴る船長の、利己心からのみ起こった一切だ、という感じが、いつのまにか、闇が産みつけでもしたように、二人の胸の中に食い入っていたのであった。
 今は、二人の漕《こ》ぎ手は、その櫓に対しての意識の集中を断念して、船長と称する不可解な、そのあいまいな、暗黒な形相をしていて、サンパンの中にすわっている、この生物に対して、「なぜおれたちは、こんなに苦しまねばならないのだ」という考えの周囲をさまよい始めたのであった。
 それは、だれもみてもいないし、聞いてもいないし、感ずることもできない、全く暗黒[#「暗黒」は底本では「黒暗」と誤記]な闇の中であった。そこには、どんな叫び声をも一のみにする嵐《あらし》と潮の叫喚があった。そこには、何物をも洗い流すところの急流があった。そこには人間を骨ごと食ってしまう鱶《ふか》がいるのであった。
 「そして、あいつは、たった一人《ひとり》だ。おまけに、あいつの腕の五本ぶり、おれの腕はある、あいつを五人さげることが、おれは平気だ! だのに……」
 獲物《えもの》のまわりにわざと遊びたわむれて、なかなか飛びつこうとせぬ狼《おおかみ》のように三上は、その考えのまわりをウロウロしていた。
 小倉は同じような考えを別な方から嗅《か》いでいた。飢餓がある。疾病がある。不具がある。負傷がある。そしてそれらのすべてが死へ行く道になっている。彼はこの道をブルジョアによって、他の無数の労働者と一緒に追われている。それを追って来るのは少数だ。追われているのはそれらの幾千倍も幾万倍もあるのに、その多くの労働者の群れには、牙《きば》をむいて自分のあとを振り向こうとする、たった一人の仲間さえもないのだ。労働者は、塩にあったなめくじだ。それはわけなく溶けてしまうんだ。ただ一人の労働者、それが十人に一人、十万人に一人もないのだ。それで、それでこそ、人間は、大量生産的に**されうるのだ。人間は自分のためには死ねないんだ。人間は、命令を好むものだ。命令の下にはすべての人間が死にうるが、自分からは一人の人間も、よく自分を殺し得ないものだ。一人の人間が、生きていたために、何十万の死んだ例がなかっただろうか。全世界の歴史が、このありがたからぬ、あるいはありがたいところの人間性の弱点によって、血で染め上げられ、肉で書かれたのではなかろうか。奴隷《どれい》の歴史を読んで、その主人の暴虐に憤る前に、人は、その奴隷の無知と、無活気なるを慨《なげ》かないだろうか。われら、賃銀労働者も、奴隷のように、農奴のように、われらの子孫をして拳《こぶし》を握らしめないであろうか。それは、人間の力をもっては、意思の力をもってしては、いかんともなし難いところのものであるか。
 おれが、人類の歴史を見て泣くように、おれはまた泣かねばならぬ歴史を、書き足しつつあるんだ。おれは、そういう汚《よご》れた歴史に邪魔者としてはいることは、今までできたのだ。また今でもできるのだ。だが、それができないところに人類の歴史が汚されるような大きな結果が持ち上がるのだ。だが、血と肉とで積み上げられた歴史は、その生贄《いけにえ》がはなはだしかっただけ、それだけ美しい花が咲くんだ。歴史が行く道をおれはついて行き、その歴史の櫓《ろ》を押せばいいのだ。
 「おい! 伝馬《てんま》はどんどん流れっち
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