った。
 彼が伝馬をタラップにつけた時は、そのからだじゅうは洗ったように汗になっていた。波を削る風はナイフのように鋭かったが、それが、快く彼の頬《ほほ》を吹いた。彼はすぐおもてへはいって汗をふいた。
 おもてへは、みな帰って、船長が帰ることについて、ものうさそうに、一言か二言ずつの批評を加えていた。
 三上と小倉とは、からだじゅうを合羽《かっぱ》でくるんですっかりしたくができていた。
 「オーイ、行くぞーっ」と、当番のコーターマスターがブリッジから怒鳴った。
 「ジャ頼みます。ご苦労様、願います」と残る者は二人《ふたり》にいいながら、タラップまで見送った。
 二人の船頭さんは、船長の私用のために、船長の二倍だけの冒険をしなければならなかった。
 船長はボーイに導かれてタラップ口へ出て来た。
 彼が何かを入れたり、出して見たりしていたトランクを、ボーイはさながら貴重品ででもあるかのように、もったいらしく持っていた。
 船長は、やきもちをやきながら、ローマの凱旋《がいせん》将軍シーザーのごとくにサンパンに乗り移った。
 船長以外のすべての者は、鉛のように重い鈍い心に押えつけられた。伝馬の纜《ともづな》は解かれた。とすぐに、それは、流された。まっ暗な闇《やみ》の中に、小さなカンテラが一つボンヤリ見えた。そのそばから、小倉と三上との声で、エンヤヨイヤ、エンヤヨイヤ、と聞こえて来るのだった。
 水夫たちは、おもてへ帰った。そして船長を送り届けてサンパンの帰るまでは、眠ってもよいのであった。けれども、だれも黙って、ベンチへ並んで腰をおろして、狐《きつね》につままれでもしたようにボンヤリしていた。
 過度労働のために、水夫たちは、無抵抗的に催眠されていた。そしてそこには死のような倦怠《けんたい》以外に何もなかった。一切の望みを失った無期囚徒のように、習慣的であり、機械的であった。いわばへし折られた腕か何ぞのようにだらりとしていた。
 時々だれかの神経が少しさめると、そこにはその神経を待っていた多くの不快な刺激が、それをムズムズとくすぐるのだった。それは虱《しらみ》の食うような、または蚊がうるさく耳のそばで泣くような、そんなけちな、そのくせどうにもいやでたまらない、くだらない事柄ばかりが待ち構えているのだった。そして、この船室全体の構造と、彼らが一様に抱《いだ》かされる共通な基本的な感じとは、倦怠《けんたい》に虫ばまれ切った囚人が、やはり、ボンヤリ高い窓をみつめて、そのなれ切った倦怠と無感覚とを、鈍く感じてるのとよく似ていた。
 船員たちは、こんなことが「労働」だとは思っていなかった。彼らは、自分が寝るも起きるも賃銀労働者であることは知っていた。けれども、それを絶えず意識の中にしっかり、握り詰めているわけには行かなかった。ことにその労働場が船であったために、彼らは一軒の家に住んでいるように心得がちになるのであった。彼らは、えて、自分に課せられる不当な労働、支払われない労働を、ついうっかり、「つとめ」だと思い込んでしまうことが多かった。
 「一つ釜《かま》の飯を食ってるんだから」と水夫たちは思って、我慢しているのだった。そして、それは、とも[#「とも」に傍点]の連中、メーツたちをして、最上、最強の鞭《むち》にしてしまわせた。彼らはほかのどんな手段ででも、その「やせ馬」どもが、すねてがんばる時は、そのとっときの鞭を一つ食らわせれば、それで万事はいいのだった。
 そのうちに、一人《ひとり》ずつ、その寝箱の中へはまりに行った。どうしても、船長を送った伝馬は、二時半か三時、でなければ、早くても帰らないんだ。このしけでは、いつまでも帰らないかもしれないのだ。大体あまり、船長も家を恋しがりすぎるのだ!
 「あああ、人間がいやになったわい」と西沢は、一番奥の彼の巣からうなった。
 「どうだ、種馬になったら」と、波田が混ぜっかえして、そのまま、死のような倦怠《けんたい》へと、一切は吸い込まれてしまった。船長は、その家へ帰ったが、負傷にうめいているボーイ長は箱の中に、荷造りされたように寝ていた。

     一六

 本船を離れた伝馬は、その航海に本船が経験した、より以上の難航であった。港口は、すぐそこのように見えた。けれども、小倉と三上との腕のさえにもかかわらず、まるで港口に近づこうとはしなかった。船長はじれ切っていた。
 「あの灯のあたりがおれの家だ」と、乗って二十分ぐらいの間は、思っていた。ところが、いつまでたっても港口が近づかなかった。しかし、まっ暗やみであったが、櫓《ろ》の音も、二人《ふたり》の鼻息もすさまじい風の音を破って彼にまでも聞こえるのであった。
 伝馬は、仙台《せんだい》沖の鰹舟《かつおぶね》で鍛え上げた三上がともを押して、小倉が日本海|隠岐
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