それらの面倒で危険な、一人《ひとり》のために何にも関係のない、もう二人の人間の生命を、危険に向かって暴露する。この「秘密」の冒険で、船長は十時間、あるいはもっと少なく八時間だけ、家庭における人となりうるのであった。
 船長は、船長室でしたくをしていた。彼は、彼の家庭についてだけ抱《いだ》きうる、彼の思想を、この船に対する他のあらゆる思想と、全然区別していた。彼は、「秘密」の彼の上陸の前には、対内的にのみ、船長から、人間に変わるのであった。彼は何もかもが、一切合切、妻のこと、子供のこと、その他で持ち切っていた。ことに、妻のことでは、彼は、「やきもち」をやいていたのであった。
 彼はトランクに種々のものを押し込んだ。そしてはまた出した。そしてため息をついた。「サンパンの準備は何だってこんなに手間取るんだ! わかり切ったことじゃないか、一度や二度のことじゃあるまいし、チェッ!」だが、彼は、まだ催促については我慢していた。そして彼は自分の室を見回した。
 船内において一番きれいな、広い、凝った、便利な室ではあった。が、彼にとってそれは、ビール箱の内側であった。それはすこしも愉快なものではなかった。それはかわいた荒蓆《あらむしろ》のように、彼の神経を埃《ほこり》っぽく、もやもやさせた。
 ボーイがコーヒーを持って来た。
 「まだ、したくはできないか、ボースンを呼べ!」と彼は、ボーイに命じた。そして、ボーイに対しても腹を立てた。「チョッ! こんな気の抜けたコーヒーを持って来やがって、コーヒーの保存法も知らないんだ、やつらは」彼は、煮えつくようなコーヒーにのどをうるおした。
 「ソーッと、出し抜けに、おれは帰らなきゃならん。自動車は家へ知れないくらいのところで、帰してしまわなくちゃ、そして……」船長は、絶えず妻にやきもちを焼いた。そして、彼も、それほど妻を愛してはいないことを、誇示するつもりで寄港地ごとに遊郭に行った。そこではよく、水夫と一つ女を買い当てたものだ!
 それは、全くおもしろい、こっけいな、喜劇の一幕を演ずるのだが、今は、サンパンが用意されようとしている。

     一五

 水夫らは、ともの、三番のウインチに二人《ふたり》ついた。ボートデッキに二人、各《おのおの》のロープについた。そして波田は、サンパンに乗った。それをタラップまで回航するためであった。かわいそうなドンキーは、また機関室へはいって、蒸気をウインチへ送らねばならなかった。火夫も火口に待っていねばならなかった。
 綱は少しずつ繰り延べられた。それは板の上へおろされるのであるならば、サンパンにかかっている鉤《かぎ》を、綱がゆるんだ時にはずしさえすれば、サンパンはそこに立派にすわっているのだが、それが波――ことにその夜のごとく、大きく鼓動している時――に向かっておろされる場合は、非常に困難であった。波の絶頂に上がった時に、一方の鉤だけをはずすならば次の瞬間には、そのサンパンは鮭《さけ》のようにつるされているだろう。それが、波の最低部にまでおろされることは、不可能であった。鉤がはずれるであろう。もし鉤がはずれなければ、本船のどてっ腹へその頭か、またはひよわいその腹を打《ぶ》っつけて、砕けてしまうだろう。
 ボートデッキで綱の操作をしている二人の水夫も、伝馬《てんま》の中にあって、しっかり、鉤のはずれないように握った、波田も字義どおりに「一生懸命」であった。波は、本船の船腹を蛇《へび》の泳ぐように、最高と最低との差を三間ぐらいに、うねりくねっていた。
 今、伝馬は波の斜面に乗った。波田はともの鉤《かぎ》をはずした。とその時に「スライキ、スライキ、レッコ」と怒鳴った。「延ばせ、延ばせ、打っちゃれ」という意味である。伝馬への本船からの臍《へそ》の緒《お》のごとき役を努めていた綱は今一方はずされ、どちらも延ばされた。波田はすぐに、船首の方の綱をも、うまくはずすことができた。そして、伝馬は、今や、本船と完全に独立した小舟になった。と同時に、伝馬は、すでに十間余りを押し流されていた。そしてそれは、盆の中で選《よ》り分けられる小豆《あずき》のように、ころころした。
 波田は、櫓《ろ》を入れた。船は、まっ黒い岩か何かのように、そこにどっしりしていた。そして、波の小舟は忙《せわ》しくころんだ。寂しい気持ちであった。彼は全身の力をこめて、櫓《ろ》を押した。船のともを回ろうとした時、伝馬はなかなかその頭を、どちらへも振り向けようとしなかった。一目散に逃げて行く犬の子のように、むやみに風に流されようとして、波田に反抗した。けれども彼の総身の努力は、そのからだに一杯の汗となってにじみ出たように、伝馬の頭をようやく風上《かざかみ》に向けることができた。が、ともすればそれは横に吹き流されそうであ
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