は思うんだ。船における戦闘は、陸上とは全然趣を異にすることが、このごろ僕にはわかって来始めた。僕らは、百人分の米を作って、自分は飢え、千人分の布を織って自分は凍えたり、大建築を建てて自分は行きだおれしたりするような労働者の地位を全く改めうるまでは、不断の闘争が必要なんだ。そしてその時は必ず来るんだ。当然来るべきよきものを迎えないという法はない。われわれはそれの来るまで迎えるんだ」
 ストキはポケットから煙草《たばこ》をとり出して火をつけた。
 「波田君、僕の話がいや味になりやしなかったかい。うんざりしちゃったろうね」
 「いいや、おもしろかった。僕は、君らが経験した監獄の話を聞きたいんだ」
 「監獄の![#「!」は筑摩版では「?」] 監獄の話は単調なものだ。単調無為という苦痛だけさ。社会では、僕らの生命はそれを顧みる暇のないほど多忙に搾取され、その溝《どぶ》だまりに投げ込まれるが、監獄では、ただじっとそれを見詰めるというだけのものだ」藤原は、静かにデッキへ出て行った。
 「さあ、それじゃ、僕は昼食のしたくをしなきゃ」といって、波田は、コック部屋《へや》へと出て行った。
 デッキでは、藤原は、波よけにもたれて、荒涼たる本州北部の風光に見入っていた。

     一四

 わが万寿丸は、三日間の道を歩んで、その夜十一時ごろ横浜港外へ仮泊するはずだった。船は勝浦《かつうら》沖を通った。浦賀《うらが》沖を通った。やがて横浜港の明るい灯が見え初めるであろう。
 横浜は、水夫ら、火夫らの乳房《ちぶさ》であった。それを待ちあぐむ船員の心は、放免の前日における囚人の心にも似ていた。
 東京湾の波浪も、太平洋の余波と合して高かった。梅雨《つゆ》上がりの、田舎道《いなかみち》に蟇《がま》の子が、踏みつぶさねば歩けないほど出るのと同じように、沢山出ているはずの帆船や漁船は一|艘《そう》もいなかった。観音崎《かんのんざき》の燈台、浦賀、横須賀《よこすか》などの燈台や燈火が痛そうにまたたいているだけであった。しけのにおいが暗《やみ》の中を漂っていた。落伍《らくご》した雲の一団が全速力で追っかけていた。
 それでも、もう本船が、酔っぱらいのように動揺する。というようなことはなかった。本牧《ほんもく》の燈台をながめて、港口標光を前にながめながら、わが万寿丸は横浜港外に明朝検疫までを仮泊した。三千トンの重さと大きさとの、怪獣のうなりにも似た轟音《ごうおん》と共に錨《いかり》は投げられた。船はその動揺を止めた。
 一時に一切が静かになった。一切の興奮と緊張とが、一時に沈静した。
 「一切は明日《あす》なんだ。明日は幸福と解放の一切なんだ」とだれもが安心したのだ。
 水夫らは、船首上甲板に立っていたが、錨が投げられると共に、その各《おのおの》の巣へ飛び込み始めた。先頭の波田がタラップをおり切らぬうちに、ボースンは怒鳴った。
 「オーイ、これからサンパンをおろすんだぞ」
 あたかも強い電波にでも打たれたように水夫たちはこの言葉に打たれた。
 岩見《いわみ》武勇伝に出て来る鎮守《ちんじゅ》の神――その正体は狒々《ひひ》である――の生贄《いけにえ》として、白羽《しらは》の矢を立てられはせぬかと、戦々|兢々《きょうきょう》たる娘、及び娘を持てる親たちのような恐れと、哀れとを、水夫たちは一様に感じた。これは、夜横浜に着いたが最後必ず起こる現象であった。そしてまた、船長はいやでもおうでも夜横浜へつくように命令するのであった。朝着きそうな予定のときだけが、その通りに入港した。その他は必ず夜着くように犬吠《いぬぼう》沖か、勝浦沖かで彼女は散歩を強制せられるのであった。
 古今共に狒々《ひひ》が、出るためには、夜を選ぶのであった。そして、悲しむべきことは、わが万寿丸に岩見重太郎が乗り合わせていないことであった。十一時、サンパンは、その非常に危険な怒濤《どとう》の中におろされなければならなかった。二人《ふたり》の漕《こ》ぎ手が、水夫の中からつかみ出されなければならなかった。
 この漕ぎ手に白羽の矢が立ったのは、鰹船《かつおぶね》で鍛え上げた三上と、舵取《かじと》りの小倉とであった。三上は低能であった。小倉はおとなしかった。白羽の矢は、岩見武勇伝の場合と違って、大抵この二人に、恒例として当たるのであった。
 二人の漕ぎ手は、一里余の暗黒の海上を、サンパン止《ど》め――暴風雨にて港内通船危険につき港務課より一切の小舟通行を禁止する――の暴化《しけ》を冒して、船長を日本波止場まで、「秘密」に送りつけねばならぬのであった。
 船長は、「秘密」で、上陸して、その家庭へ帰るのであった。そして、その翌朝、「秘密」に、ランチで本船へ帰って、それから、「公然」入港するという手順になっていたのである。
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