によって、法においても戦うつもりだ』
 白水がその重々しい論調で、肋骨《ろっこつ》の間から、心臓を目がけて、錐《きり》でも刺すように話していると、相手の後明は、最初はいやに横柄《おうへい》ぶって、虚勢を張っていたんだが、しまいには、おそろしくなったらしいんだ。
 『しかし、私はまだ、馘首《かくしゅ》するとも退職せよともいいはしないんですよ。ただそれは例のないこった、今まではこういう仕来たりであったといったまでですよ』と、その千枚張りの面《つら》の上に油をかけやがるんだ。
 『悪い例なら破ったらどうだというんだ。旧来の陋習《ろうしゅう》を破ったらどうだというんだ。一切|合切《がっさい》を前例に守っていたら、人間はいまだに、人間の肉を食って、生活しなければならないんだ。まだ人間が人間の肉を食っているんだが、それがなくなるためには、あらゆる旧来の陋習が破らるべきなんだ。ことに法律でさえ保障しているような範囲内にまで、労働者を搾取し劫略《ごうりゃく》することは、明らかに人間|嗜食《ししょく》の一形式だ』白水はますます彼の錐《きり》をもみ込んで行った。
 『いや、君のように興奮しちゃ困りますよ。そういうお気の毒な事情ならお払いするようにしましょうが、何しろ前例のないことですから、一度重役まで伺って見なければなりませんが、今すぐでなければいけないんですかね』と白水にいって、
 『オイ、どうだい、すぐいるのかい』と、哀れな切り株にきいた。
 『もちろんすぐです。今日《きょう》はもう三日後になってるんだから、おくれてるんですぜ』と、白水は、その切り株があわてて、ヘマな返事をすることだろうと思って、引き取って答えた。
 『それじゃお話しして来ますからしばらく待っててくれたまえ』といい残して、バリカンでいたずらに毛をきられたむく犬のような格好で、後明人事係は出て行ったんだ。
 長いこと待たせて後明は帰って来て、紙っ切れを渡して、
 『それへ金額を書いてください、そして、その金額は向こう三か月間に分割して、収入から差し引いて積み立てますから、そのつもりでいてください』と抜かしやがったんだ。
 『何をこのむく犬め』と、白水はいきなり怒鳴りつけて、そこにあった椅子《いす》を振り上げかけたが、切り株が止めた。
 『へえ、ありがとうごぜえます。今さえ助かりゃ、あとは三月で間違いなくお返しいたしますから』と、一方で白水を引っぱりながら、一方で後明に、承知をした上、ご丁寧なお辞儀を一つしたんだ。
 『へえ、何に、今の都合がつきゃあとはまた、まっ黒になってかせぎますから』と白水にいったんだ。
 その事件があって後の白水は、会社側からはなはだしく忌みきらわれた。そして白水の馘首《かくしゅ》が事務員から、重役の問題にまで進んだんだ。
 この家屋浸水事件後、僕と白水その他の多数の兄弟たちが、A工場に対して、N市における最初の大規模な応戦を試みて、全部が、見事に陣頭に倒れ、おまけに僕と白水とほかに四人の兄弟が、その争議のため、牢獄《ろうごく》の赤い煉瓦塀《れんがべい》をくぐることになったんだ。それは九月の末ごろであったろう。A工場の労働者たちは、切り株浸水事件の後に、白水が積善会の積立金の会計報告等が一切ないことを鳴らし、かつ工場[#「工場」は筑摩版では「工場法」]の扶助規則や未成年労働者使用等、規則違反が多いことなどを表面の理由として、資本家階級の間に、どんな策戦があるか探りを入れ始めたんだ。N市は地方色的に利己的なところであった。そのために争議も、一種の地方色を持っていたのだが、僕らは、最初の日の示威運動がすむとすぐに警察へ引っぱられ、そのまま、未決監へ送られたので、争議の経過は、まるで知らなかったんだ。だが、僕らが警察へ検束された翌日、ドシャ降りの雨の中を、A工場の兄弟たち千人が、警察へ示威運動に来て、警察へ委員を送って検束の理由を聞く一方労働者軍は、雨の中でその響きと和して革命歌を合唱してくれた時は、僕ら五人は中で思わず革命歌に合唱したんだ。そして、その日の夕方、その日の示威運動をリードした鈴木《すずき》君が、はだしで引っぱって来られたんだ。
 僕らは、警察から検事局、検事局から未決監、予審と、順を追うて進むべき道を進んだんだ。そして、そこへ送られた五人の初犯囚は、警察の恐るべきでないと知ったごとく、****なる[#「なる」は筑摩版では「る」]べきでないことをまた知るに至ったのであった。その争議は、N市に永久に、無産者運動を据えつける基礎になった。
 そして、その刑を終えると、同志はそれぞれ袂《たもと》を分かって、他の都会へ散って行ったんだ。そして、僕だけはこうして船乗りになっているんだ。白水は今は[#「今は」は筑摩版では「今」]どこで活動してるだろうと、よく僕
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