んだ。そして、その金を一定の額だけ、吉凶禍福に応じて、会社からいくらかの補助金と共に『給与』してもらうんだ。そして毎年一回この金で運動会を開いて、一金一封(五十銭)を酒代として、いただくんだ。工場法の役目を、労働者の負担に転化した型が、すなわちその積善会なるものだったんだ。その積善会のお金の中で私の積立金をくださいと、この男は申し出たんだ。
もちろんそれは言下にはねつけられて、見舞料として、積善会から二円だけもらえたわけなんだ。ところが二円では何とも話が煮えんとその男はいうんだ。何とかならないでしょうかと、相談を白水に持って行ったんだ。
『それは、積立金を取ったらいいだろう。積立金は職工の貯金だろう。それを取ったらいいだろう。積善会の方はまた話が何とかつくだろう』ということで、白水は事務所へ、その節くれ立った木の切り株のような男と一緒に行ったんだ。
工務係の後明《こうめい》という妙な後光の差しそこなったような名前の男が、二人《ふたり》と相対して、何の話だときいたんだ。
おふくろと、妻と赤ん坊とを、押入れへ押し上げた、この哀れな男は、くどくどと、なぜ波が敷居より上へ上がって来たか、とか、畳と畳の間から、まず汚《よご》れた水が、ブクブクと吹き出して来るものだとか、押入れへ、幸い、三人を入れましたので、とか、彼が、今そこで、そんな目に会ってでもいるように、細大もらさず、『客観的』に話し始めた。
彼の話は、決して腹の立つべき質《たち》のものではなかった。けれども、その長さと、それから、繰り返しと、切りのないのとには、だれもが退屈をしなければならなかったし、それに、話の中に、いつのまにか、問題と、話の中心とが離れてしまうという困難な欠点があった。
『それで、どうだというのだね』と後明は、この男にきいた。
『へー、それで』と、この哀れな男はおうむ返しに答えた。そしてそれっ切りで先が出なくなってしまったのだ。彼はもう、自分の要件は今までの話の中で話した、それも繰り返し繰り返し話したような気がしていたのであった。もうこれ以上何を申し上げましょうといった顔つきをしていた。
一三
『そういう悲惨な事情であるから、自分の労働賃銀の一部を積み立ててある、積立金を払い戻してくださいというのです』白水が代わって話した。
『君は頼まれて来たのかね』後明は、それの方が先決問題だというような顔つきできいた。
『そうです』
『そうかね』と、今度はその男にきいた。
『へー』と、どっちだかわからぬ返事をその男はした。
『その事が、その積立金払い戻しについて、それほど重大な先決問題じゃないではありませんか、問題はきわめて簡単でしょう。労働者がその売った労働力に対して支払った金額の一部を、会社が労働者のために積み立ててある、強制的に。その金額を、労働者が返してくれというのは、まるで一分の思考をも要しないことじゃありませんか』白水はまくし立てた。
『そりゃね、だれも払わんとはいわんのだが、どういう手続きで持って行こうってんだね』
『支払い伝票さえ書けばいいこっちゃありませんか』
『つまり、退職しようというんだね』と、意地わるの後明人事係はいった。
『退職! だれが、いつ退職なんていったんです』と白水は少しずつ興奮してやり始めた。
『だが、会社の規則では、積立金は、退職の時に支払うということになってるもんだからね。従って、積立金を受け取る者は、同時に、賃銀の残額をも一緒に支給されることになるわけだね』と、その豚めは、いやに尻《しり》を落ちつけてやがった。
『もちろん』と、白水は口を切ったんだ。やつが、何か心に決することがある時の重々しい口調でね。
『労働者が退職して行く時に、積立金が賃銀と同時に支払われるのは、当然なんだ、それは工場法にも明記されてあることなんだ。しかし、それはいかなる事情があっても、会社に損害のかかった場合でも、それから差し引くことができない、性質の金なんだ。その金が本人退職後もなお会社に残っていたとすれば、明らかに委託金横領ではないか、その金が支払われるのが、いつも最後の例だからって、その金を受け取ることによって、辞職を意味するなんて、そんな詭弁《きべん》が、よくも人事係の君の口から吐けたもんだ。君のその論調と態度とが、今まで、労働者自身の金を、どんな必要があっても労働者へ返さなかった、という例を作ったまでのことだろう。君のその論調でやられたのならば、今まで、一時の入用のために、自分の預金を引き出すために、どのくらい多くの労働者を、君は馘首《かくしゅ》したことになるだろう。この会社の積立金がもし、糸切り歯のように、それをとると、命に関するというのであったなら、僕はわれわれの武器に訴えても、または工場法
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