うになって来たんだ。
 そして、ついに、警察によって刺激された若人《わこうど》どもは、立派な『無産階級軍の前衛隊』となり、なお加えらるる試煉によって、牢獄《ろうごく》も、絞首台も、恐るるに足らずという、固い信念の中に、生きるようになったんだ。そうして、そうなると、そこに待っていたものは、彼らの尻《しり》を引ったたいた鞭《むち》が、こしらえて待っていた陥穽《おとしあな》であった。いよいよ彼らは、現実に牢獄の塀《へい》に打《ぶ》っ突からねばならなくなったんだ。
 ある年の秋だった。A工場のあるN市は、日本全国を襲った暴風雨の襲撃をこうむった。その程度は日本の諸都市中で最もみじめな部分に属するほどであった。
 風が強くて、雨が横から吹いて、傘《かさ》がさせなかった。屋根|瓦《がわら》が吹き飛ぶので、街《まち》に出られなかった。海岸部分は軒先まで浸水した。水がひくと同時に、壊崩《くず》れた家が無数だった。船が海岸へ打ち上げられて、おもちゃ屋の店先における船のようであった。目ぬきの方でも、小学校が崩壊した。民家が倒れた。市民は外にも出られなかった。内にもいられなかった。
 A工場[#「A工場」は底本では「N工場」と誤記]の労働者も、この天災から逃避し得なかった。のみならず、彼らはその住む地域の関係上、より一層はなはだしい程度に、その惨害を受けた。彼らは少し受け取って多く養うために、安い家賃を選んだ。そこは海岸の低地であったんだ。
 A工場の労働者で、白水と同じ部に出ている男が、十分にその浸水の塩の辛さをなめさされた。彼の家は床上二尺浸った。畳がまさに汚濁せる潮水のために浸ろうとする時、まさにその時期にかっきり達している彼の妻君は、生理上の法則に従って、赤ん坊を分娩《ぶんべん》した。その産褥《さんじょく》の隣に、十二年以前からいかなる場所へでも横になって行く、痛風の彼の老母が臥《ふ》せっていた。
 太陽がだれをも待たないと同様な公平さと、正確さとで、その汚濁した潮水は、その水量を増して来た。叫喚があった。失心があった。泣き声が上がった。
 この労働者は、盥《たらい》に赤ん坊を入れた。そして押入れの上段に、できるだけ深く老母を押し込んだ。次に彼の妻君を、その手前に押し込んだ。その上で、この男は、自分自身赤ん坊をぼろでふいて、父親の正当なる責任を果たした。きわめて簡単|明瞭《めいりょう》なる事実であったが、その[#「その」は筑摩版では「それが」]簡単であっても、その事のために入費がかかるということも明らかなことだった。ところが、どうしてこの男が母の薬代や妻のあと始末、それから子供への手当て、産婆への報礼などをすることができよう。それどころではなかった。彼は今まで、家族を養っていたA工場にも、出るに出られないありさまだった。畳はビショビショにぬれていた。床の下は魚《さかな》でも住んでいそうだった。便所と井戸水とが同居したのに、まだそれが掃除《そうじ》されていない。
 もし、この男が苦労になれなかったか、貧乏になれなかったかで、ちょっと神経質ででもあったのならば、僕らが考えても、首をくくった方が気がきいていそうに思われるくらいなんだ。ところが、この男は我慢したんだ。あとで知る事だが、この男は我慢するんだ、何でも、癪《しゃく》にさわるくらい我慢強いんだ。と僕らは、そう思ってたんだ。ところがどうだろう。まるっ切りやつは感じないんだ。
 彼は、この惨憺《さんたん》たる事実に対して、何物をも感じなかったようだった。ただ、金が少々あればいいのだった。それが万事を解決するだろう。君、長い間、人間はあまりみじめであると、感受性を全然失ってしまうものらしいんだ。この兄弟なんぞもやっぱりその一例だと見れる。人間がその苦痛に対して、ならされてしまう――何の必要もないのに――それが、どんなことだと君は思うんだ。馬が去勢されて生殖欲がなくなるように、人間が、縛りつけられて、型に押し込まれて、自由を奪われてしまった去勢された馬のように、感受性を失ってしまう。自分がどんな奴隷《どれい》だか知らずに、働けば楽になると思って働く。労働者たちは、皆この感受性を麻痺《まひ》させられてしまったのだ。労働者は働けば働くほど、自分を搾《しぼ》る資本に、それだけ多くの余剰労働は搾取され、資本を増大せしめるんだ。
 この去勢された、馬のようになり切った兄弟は、二、三日の後会社へ行ったんだ。
 『積善会の積立金をいただきとうございますが、こうこういうわけで』と事実の[#「事実の」は筑摩版では「事実」]ありのままを純客観的に――彼には、今では、彼自身のことが客観的にしか見えなくなったようだった――くどくどと述べ立てたんだ。
 この積善会ってのはね、労働者の賃銀の百分の五を毎月強制積み立てをさせる
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