まうじゃないか、どうしたんだい」
「船長! 引き潮だから、いくら押してもだめだ。港口に行きゃあ、また流れっちまうだけのもんだ。それよりゃ上げ潮を待った方がいいや」三上はまだ獲物のそばにでもいるように薄気味わるく、ぞんざいな言葉を使った。
「ばかなことをいうな! 夜が明けちまうじゃないか、しっかり押せ!」
「自分でやって見るといいや、これ以上おれたちの腕にゃ合わねえんだから」三上はいよいよ打《ぶ》っつけるようにいい切った。
「何だ! やらないというのか! よし! 覚えておれ!」船長も仕方がなかった。こんなまっ暗がりの海の上でけんかをすれば自分が負けにきまっているのだった。彼は明日《あす》を待つことにした。
「何だと! 覚えておれ? この野郎! 手前《てめえ》は何だって……今日《きょう》の暴化《しけ》がサンパン止めになってる事ぐらいを知らないか、この野郎、手前を海の中にたたき落とすのは造作ねえんだぞ、どこひょっとこめ!」三上は漕《こ》ぐ手を止めてしまった。
三上は、低能だといわれていた。彼にはいろんな発作的の行動があるのだ。船長は、それを知っていた。それでいじけ込んでしまった。ばかに相手になってこの暗い海へほんとにたたき込まれたら、全くそれ切りだってことは、十分に船長も知っていた。
「三上、そう怒《おこ》るものじゃない。え、浜につけば、気に入るようにしてやるから怒らずに、一生懸命やってくれ、え」
「着けば『わかる』んだね。よし来た」仙台はまた、ぼつぼつと櫓《ろ》を押し始めた。
小倉は、おかしかった。「着けばわかる!」三上の野郎首を切られるのがわかるだろう、ばか野郎め! せっかくおもしろいところまで筋が運んだと思ったら「わかる」で済ましちまやがった。フ、これが「労働者」なんだ。だれにでも、たった一言できれいにだまされちまうんだ。これだから、人間の歴史がいつまでも[#「いつまでも」は筑摩版では「いつでも」]、歯がゆくて癪《しゃく》にさわってたまらないんだ。あ、わかる、わかる、全く一切がよくわかる。
しかし全く、心細い「航海」ではあった。海はすぐその足の下でうなっていた。啀《いが》んでいた。そしてそのからだをやけに揺すぶっていた。
三上と、小倉とは、その生活の大部分がそうであると同じに、今もただ機械的に働いているに過ぎなかった。けれども、彼らは、恐ろしく磨滅《まめつ》して来た。いわゆる「焼けて」来たのであった。彼らは十分に栄養を採っているわけではなかったので、機械の油が切れてすぐ焼けて来るように、彼らの肉体も焼け始めたのであった。彼らは、ことに小倉は三上よりも体力が非常に劣っていたので、肩から背へかけた部分、大腿骨《だいたいこつ》の部分などに、熱を感じて来たのであった。それと共に、二人とも、非常な「だるさ」と、力の衰えることを感じた。彼らは「ままよ、なるようになれ!」と覚悟を決めてしまった。
船長も、今は強圧的に、頭ごなしにやっつけるわけに行かなかった。もちろん[#筑摩版ではここに「彼は」が入る]、その精鋭なるピストルは本船に置いて来たのであった。このために彼は、幾分かその憶病さの度が募ったのでもあったが、何しろ、彼は、ただ一人であった。その権力――与えられたる――を保証し、それを暴力化せしめるところの背景が、全然、今、彼に与えられていなかったのだ。
「力が一切を決定するのだ。民衆は、今恐ろしい勢いで力を得つつあるのだ。力が正しく働くか、力が悪く働くか、力が搾取的に働くか、力が共存的に働くか、によって、人類が幸福であるか、不幸であるか、惨虐であるか、平和であるかに分かれるんだ」
小倉は、船内において最大、最高の、公、私、いずれにもわたる権力の所有者である船長が、その一切の暴力的背景を置き忘れて来たために、この短時間の間に、五倍の太さの腕を有する三上の一|喝《かつ》の下《もと》に、縮み上がらねばならぬという喜劇を見た。そして、そこに暴露されたる権力の正体を見た。
「おれたちが力を個々には持っていても、それが組織されていない、訓練されていない、というところに一切の敗因が巣食っているのだ!」小倉は、それが個々に露頭の突き合ったおもしろさから、あとから、あとからと、それについての考えが、わき出て来るのだった。
「だが、おれたちは、今、この万寿丸の状態で、労働者の個々の力を組織することができるだろうか、発作的な、衝動的な、同志打ち的な暴力の発動は、おれたちの仲間にある。(以下八字不明)はおれたちの上にあるのだ。おれたちは、十分に組織された暴力をもって傷つけられる上に、まだ足りないで、自分自身の暴力まで用いて、自分を傷つけるんだ」
小さな伝馬は、その危険なる海上を、その暗黒の中に、船長の地位も権力をも完全に蹂躙《じ
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