、彼はその時間を、自分のベッドへともぐり込んだ。彼は、八時になると、コックから起こされた。彼は、おもての人たちが食べるように、大きなみそ汁|鍋《なべ》と、お鉢《はち》とを、コック場《ば》から抱いて来て、柱に添うてつり下げた、テーブルの上へそれを載せた。それから彼はあらゆる準備を終えて「飯だ!」と怒鳴った。
 ボーイ長には、昨夜どおりに、みそ汁を添えて与えて、彼は第一番に朝食についた。それは、全くうまい飯であった。みそ汁もうまかった。沢庵《たくあん》も、……
 波田が食っているうちに皆も眠い目をこすりこすり起きて、飯にとりかかった。
 船の飯はうまかった。それは、全く沢山食われた。それは味としては実にまずさこの上もないものであった。みそ汁にしろ、沢庵にしろ、味という点から味わう時にそれは零《ぜろ》であった。けれども、これがセーラーたちにはこの上もなくうまかった。彼らはよくそれほど多量に食べると思うほどむさぼり食った。
 ストキは波田に、セーラーたちが、まずいものを多く食べることには、心理的な部分も非常に手伝っているといったことがあった。ストキに従えばこうであった。
 セーラーは食物を定期に与えられる。彼らは、どの食事の前にも少なくとも、四時間の労働を課せられている。彼らは十分空腹である。時間が来ると、彼らは食卓へかけつける。食卓には、盛り切りの惣菜《そうざい》が一|皿《さら》ずつ置かれてある。やや充分に食べるためには、沢庵だけしかない。彼らは、いつでも、次の食事がはなはだしく待ち遠い。それは、空腹が待たせるよりも、も一つの重要な理由は、次の食事が来るということが、その日の労働をそれだけ成し終えたという、一つの安心を彼らに与えることと、その食事のあとにいくらかの時間が、彼らに与えられていることとである。彼らはこれらの心理[#「心理」は筑摩版では「心的」]作用によって、待ち兼ねた食事が済むと、すぐに次の食事を、ゲーゲーおくびを出しながら待つのである。彼らはまた食事と食事との間に、間食することができない。彼らは食事に際して、そこに盛られた量以上の菜は絶対に食い得ない。また、それ以外の菜も海上において求むべき方法がない。ちょうど彼らは囚人が、その胃腸を少食のためにそこないつつ、堪《た》えられない飢えを訴え、次の食事に対して焦燥を感じつつ待つのと、同様である。
 セーラーたちが、食事をそれほど待ち、むさぼるのは、それが自分自身のためにする(これは資本家のために、再生産することにもなる)唯一の生活手段であるからだ。自分のためにする何らの仕事のない時、ただ一つの自分自身の事があるならば、それはだれにでも、重大に取り扱われねばならないことだ。ことにそれがパンの問題に関する時は、なおさらそうでなければならない。
 実際彼らは、その食事を、実際より以上に、想像をもって調理して食うのである。じゃがいものうでたのが塩で味をつけて盛られてあると、彼らは、それをキントンと呼ぶのである。そして、それは全くきんとんのようにうまいのである。
 外国航路における船では、決してこんな状態ではないが、それにしても心理的には、やはりそうである。けれども、万寿丸は、これがはなはだしい。万寿丸では、船主は甲板部に豚を飼っているつもりででもあるらしい。
 「こんな状態では、だれでも、心細さからだけでも、のどまで詰め込みたくなることは事実である」と。これがストキのプロレタリア哲学であった。
 事実、ストキは質《たち》が悪い、第三者のつもりで、自分があらかじめ腹を作って置いて、その状態をながめる時に、ストキの観察及び批評は当たっていると、思わずにはいられないのである。
 食事は、藤原の皮肉なる観察のごとくにして終わった。終わるやいなやまた元のごとく寝床へ犬のようにもぐり込んだのが、三上であった。西沢は煙草《たばこ》に火をつけて、彼が最も得意とする、信州|岡谷《おかや》付近の紡績工場へ勤めていたころのローマンスの一くさりを語り始めた。彼の話は実にうまかった。講談師でもあれほどには話さないであろうと思われるほど、一切を創作的に述べるのであった。そして、その話がうまければうまいほど、初めの人は感心し、古顔は、にげ出してしまうのであった。
 今は、藤原も、波田も、にげ出すわけに行かなかった。ほかにだれも西沢のローマンスを引き受けてくれるものがないからであった。藤原は辛抱する気でこれもむやみに、煙草をふかした。
 西沢の話が、その巧妙なる山にはいって、今まさに落ちようとする時、藤原がいった。
 「君の話は大変うまい。そして大層おもしろい。ただ、一度だけ純粋なほんとの話をして聞かしてもらったら、なおおもしろいだろうと思うよ」
 「アハハハハ、君の皮肉の方が上手《じょうず》だよ。僕も一度ほんと
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