みがき楊子《ようじ》をくわえながら相談した。
 「それは願うまでもなく至当の事じゃないか。黙って休みゃいいさ」と藤原は闘争的に主張した。
 「これは、一々その都度都度、頼んだり願ったりしちゃ、面倒だし、そのたびにかけ合いに行く者が悪者になるようだから、一つ永久的の取りきめにしたら、『日曜日、出帆入港にて休日フイとなりたる節は、翌日を公休日となすこと』とか何とか、四角ばって、約束しといたら、そんなに、毎々まごつかないでも済むだろうじゃないか」波田は提案した。
 「そんなにしなくたって、そういつもあることじゃないんだから、今日だけ願っといたらいいじゃないか」とボースンはなだめた。
 哀れなボースンよ! 年は寄ってるし、子供は多いし、暮らしは苦しいし、かかあは病気だし、この憶病な禿《は》げのお爺《じ》さんに従うことに皆決めた。
 ボースンは、顔をあわてて洗うとそのまま、チーフメーツのところへ頼みに行った。
 船は大うねりに乗って、心持ちよく泳いで行く。右手にははるかに本州北部の山々が、その海岸まで突出して、豪壮なる姿をまっ白く見せた。寂しい山河《さんが》である。そこにはわれらの寄るべき港とてはほとんどないのであった。人煙まれなる森林地帯ででもあるように、原始的な草原ででもあるように感じさせる景色《けしき》であった。ボースンの返事のあるまで、水夫たちは、デッキへ上がって、なつかしき陸をながめ、昨日《きのう》困らされた海を見入るのであった。
 風は、今日は昨日ほど寒くなかった。黒潮の影響を受けているので、デッキへ上がって[#「て」は筑摩版では「ても」]、メスで頬《ほほ》の肉を裂かれるような痛さを感じることはなかった。
 水夫たちは皆、それぞれの嗜好《しこう》に従って、横浜へ着いてからの行動や、食物について空想に浸っていた。デッキの上では、彼らは陸にさえ上がれば、あらゆる快楽がある、それが待っていると思う。自分たちが縛られ、奴隷《どれい》扱いにされ、自由を略奪され、労働力を搾取されていることは、陸と、デッキとの間に海が横たわるからであると、無意識のうちに考えていた。それはちょうど牢獄《ろうごく》に監禁された囚人が、赤い高い煉瓦塀《れんがべい》のかなたには、絶対の自由がある。自分はそこでは自分の好む通りにすることができる。そこは、そのまま天国だと、考えるようなものであった。ところが監獄の塀《へい》の外にも、彼の考えたような自由はその影もなかったように、また甲板の上で考えたような自由と幸福とは、決して陸上にもありはしなかった。彼らは、それを、彼らが上陸するたびに味わった。そして、陸上で自分の財布を地面へたたきつけ、自分の着ているその無格好な汚《よご》れた着物を引き裂き、労働で荒れた、足の踵《かかと》のような手の皮を引んむいてやりたく思うのであった。それらが、彼らがせっかくあこがれ切った陸に上がったにかかわらず、彼らから自由と幸福とを追っぱらった。
 労働者は、自由や幸福や、人間性が、賃銀を得つつある間に自分に与えられ、あるいは自分からそれを得ようとすることが、全然不可能なことであることを知るようになる。人間が牛肉を食うと同じように、人間が人間を食う時代の存続する限り、労働者は、その生命が軛《くびき》の下《もと》にあることを自覚しなければならない。水夫らは、そんなふうなことを感じた。と思うと、そのすぐ次には「おれ一人《ひとり》でいくらあせって見ても始まらない話だ、坊主でも女郎買いをするではないか、おれらは人間の中のくず扱いにされているんだ」と、社会が自分に強制するところの職分及び生活範囲を、自分から容認してしまうのであった。
 彼らは、陸でも、これより月給がいいのに、おれは海の上でなぜこんなに少ないのだろう。おれも陸に上がって働けないだろうか、とても働けまい。口があるまい。と、彼らは法則どおりに思い込んでいるのであった。
 ボースンが「とも」から帰って来た。そして「特に今日は休暇を与える」といったことを伝えた。
 この報告は、何らの批評もなく皆に受け入れられ、喜ばれた。
 「ばかにしてやがらあ『特に』だとよ」と、うれしそうに叫びながら、だれもが、何をするためにともわからずに、そのベッドへと駆け込んで行った。
 そしてこの貴重なる、出し渋られた休日を彼らは大抵眠ってしまうのであった。全く、いつもの例のごとく、この時も、一人残らず、その巣へもぐるが早いか、眠ってしまったのであった。
 唯一の切実なる欲求を睡眠に置いているセーラーたちは、そのことから見ただけでも、どのくらい彼らが過労し、酷使されているかがわかる。

     一〇

 朝食は八時である。波田は、ボーイ長が負傷したため、仕事の間に炊事の方をやらねばならなかった。二時間ばかり間があるので
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