は、一々塗ることが不可能であるために、二人のセーラーはワイアをグリスのついたウエスで握ってるという形になって現われるのであった。
巻き方は骨が折れた。と同時にグリスの塗工《とこう》も寒かった。そして、その全体の者にとって最も苦痛な点は、凍寒と、眠いということであった。
寒さは全く著しかった。合羽《かっぱ》をバリバリに凍らせた。皮膚が方々痛かった。歯が合わなかった。からだがしびれて来るのだった。そして、眠りは、もっと強く、水夫たちを襲った。賃銀労働のあらゆる刹那《せつな》が必要労働と、余剰労働とに分割されうるように、あらゆる刹那に、寒さと、眠さとが、まるで相反した刺激を彼らに与えた。
寒さに対しては、彼らは必要以上に、からだを揺り動かした。眠さに対しては、彼らは膝《ひざ》関節が、グラグラして、作業が空《くう》になるのであった。そして、それが、お互いに、いたちごっこをしているのであった。それはまるで、冗談半分にやってるとより思えない格好であった。
セキメーツは絶えず、怒鳴り散らした。実際セキメーツにとっては、水夫らがそんな格好をすることは、仕事の能率の妨げになり、ことに「おれをばかにして」いるのであった。水夫らは、セキメーツの怒鳴るのと、波浪のほえるのと、スクルーの轟音《ごうおん》と、リギンの裂くような音とをゴッチャゴッチャに聞いてしまった。そして、依然として、彼らは、彼らの必然に従って、二つの反射運動を繰り返した。
セキメーツは自分の怒鳴るごとに、わざと、一度ずつ余分に入れるようにしてやろうと計画した。「こいつらをあくる朝まで巻かせてやるぞ!」と彼は決めたほど怒《おこ》ってしまった。
沈錘は長い間反抗して、とうとう上がって来た。錘の中からガラス管を取り出して、それに代わりを入れて、入り口を、グリスでしっかり塗るのである。そのガラス管が錘の内へ収まるやいなや、セキメーツは「レッコ」と怒鳴る。ボースンはバネをとる。沈錘と、ワイヤとは投げられた石のように飛んで行く。
この作業を水夫らは繰り返さねばならなかった。それは我慢のならぬことであった。けれども我慢せねば、またならないことであった。
水夫らは、八度、それを繰り返した。それは、八日、航海するよりも、八日拘留されるよりも長かった。その間に四時間半を費やした。彼らはぬれた麩《ふ》のように疲れ衰えてしまった。
セキメーツは徹夜の決心を、自分のために撤回した。彼も今はぬれた麩であった。
水夫がその南京虫《なんきんむし》の待ちくたびれている巣へもぐり込んだのは、午前一時前十五分であった。そこには眠りが眠った。
九
一切を夢の中に抱擁して、夜はふけた。夜、そのものは、それでいいのであるが、おもての船室は、一八六〇年代の英国におけるレース仕上げの家内労働者が、各|一人《ひとり》に対して六十七ないし百立方フィートしか空気を与えられていなかった――マルクス――のとくらべて、もっとはなはだしかった。われわれは、夜の明け方まで、死のような眠りにつく、そしてその死のような眠りからさめて、「罐詰《かんづめ》の蓋《ふた》」をあけて、外気を室内に吹き入れしめるときに「ああ、目がさめた」と思う代わりに「よくおれは蘇生《そせい》したものだ」と思うのであった。
われわれはしけの場合は、ことにオゾーンが多いにもかかわらず、ほとんど窒息死の瀬戸ぎわまで眠る。そのために、われわれのからだじゅうは、一晩じゅうに鈍く重くなっている。そして、睡眠が与える元気回復ということは思いもよらないことであった。
われわれは、水夫室なる罐詰の、扉《とびら》なる蓋《ふた》をあけて、初めて、人心地《ひとごこち》がつくのであった。――これは、本文と関係のないことであるが、この時乗り組んでいた人間のうち、藤原、波田、小倉、西沢、大工《だいく》、安井は皆肺結核患者であった――そして、この空気混濁は、そのことに起因して、肺疾患者を海上において生産する矛盾をあえてした。
罐詰の内部に、生きたものがいるという結果は、どんなものであるかは、明らかにだれにでも想像のつくことであった。ただそれは、その蓋《ふた》をあけた時に、蓋の外の清浄さによって、非常に救われた。
彼らが五時間眠っている間に、海は凪《な》いだ。アルプスのように骨ばっていた海面は、山梨《やまなし》高原のようにうねっていた。マストに、引っかかり打《ぶ》っつかった雲は、今は高く上の方へのぼって行った。
発作の静まったあとのように、彼女はおとなしく、静かに進んだ。
室蘭出帆の日は日曜であって、作業、それも並み並みならぬ難作業だったので、今日《きょう》の月曜は日曜繰り延べで休みにするように、「とも」へ頼みに行くことにしようではないかと「ならずもの」どもは、歯
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