もと》に、生活しようとするだけなんです」静かに彼は答えた。
 「私たちは、どこへ行ったっていいところはないのです? え、それは、一体、だれの責任だ。おれの責任だとお前は言いたいんだろう。おれは、今も言ったじゃないか、だれが、頼んで乗ってくれといったと。それに『よりいい条件』の生活がしたかったら、なぜもっと、勉強して上の方へ、昇《のぼ》るようにしないんだ。自業自得を、人の責任におっつけるのは、図々《ずうずう》しすぎるぜ」船長は、こいつ一つ脂《あぶら》をすっかりしぼりぬいてやろうと考えた。そして、それからつっ放す! と。
 「ご忠告は、ありがとうございますが、勉強して上へ上がって行く人間があまり多くなると、セーラーなんぞするものが、なくなるだろうと思いまして」彼は危うく笑おうとするところであったが、それだけは取りとめた。
 「ばか! お前は、おれを愚弄《ぐろう》してるつもりか! ばか! が、いくら勉強してもばかはばかなんだ。セーラーより上にはなれないんだ。だから、実力さえあったら人に遠慮などせずに、サッサと船長にでも機関長にでもなったらいいじゃないか」
 船長は、だんだんストキの話の相手になってしまった。
 「私たちは勉強しても、船長はおろかボースンにも、なれないだろうと思っているのです。ですから、なおさら、私たちは、今のままで、幾分でもいい条件の下《もと》で労働したいと思うのです。私たちには、決して、船主になったり船長になって、富《とみ》や、権利を、得ようという考えなんぞはないのです。私たちは、普通の労働者として、普通の人間としての、生活を要求するのです。人間として、船長は労働者よりもより特別なものだとは、われわれは考えません。われわれは、今では、階級と称せられているものは、一つの仕事の分担に、過ぎないものだと思っています。それだのに、今では、ある仕事を分担すると、同時に、人間を冒涜《ぼうとく》するようにさえなります。人間が、人間を虐《しいた》げ、踏みつけ、搾取することを、えらくなると考えることは、半世紀ばかり前の考えだと、私たちは思っています。私たちは、人類の生活の一部分の貴《たっと》い分担者として、自分を見ているのです。だが、あなた方は、私たちを資本家と思っている」ストキは、その話にだんだん熱と真摯《しんし》とを加えた。
 「資本家と思っている。お前らをか? ハッハッハハハハハ」とうとう船長も、あまりのストキの言葉にふき出してしまった。「恐ろしい資本家もあったものだ! ハッハッハハハハハ、蚤《のみ》と南京虫《なんきんむし》のだろう!」
 メーツらは皆笑った。セーラーたちが、資本家とは珍しい言葉だった。
 「もし、私たちを資本家だと思っていないのならば、奴隷《どれい》と思ってるだけです。私たちの売ることのできるものは、私たちの労働だけです。つまり『からだ』だけです。だが、それも、私たちのものでないと考えられるならば奴隷だ、と考えられることになるのでしょう。しかし、奴隷だったら、なぜその奴隷の生命を大切にしませんか。奴隷は、あなたたちの財産じゃありませんか。私たちの生命が、あなたたちにとって、まるで、どうでもいいものになったのは、私たちが奴隷から、資本家、すなわち賃銀奴隷になったからです。それは、とっかえるほど新しい、いい商品が、無限にあるからです。
 それに、私たちは、いつまでも、どんな奴隷ででもありたくはなくなったんです。どんな機会にでも私たちは、私たちを縛る鉄の鎖を打ち切る用意をしているのです。
 私たちは、人間として、生きようとしているのです。そこへ持って来て、どうです! 私たちは蚤と南京虫の資本家! なんでしょう、私たちは、その要求が通ればよし、通らなければ、私たちの力がどのくらいあるかを、お目にかけるまでです」
 ストキは最後の言葉に、力をこめて言い切った。
 「フン、それもよかろう。だが何かね。波田、おまえは自分から進んで、この要求書に捺印《なついん》したんじゃないだろうな。だれかが、お前を煽動《せんどう》したんだろうな」船長は、方向を転換した。
 「私は、どの船でもストライクの種を、見つける役目をするつもりで、船のりになったんです。私は、この船に乗った最初の日から、風呂場《ふろば》のないことでも、ストライクがやれると考えていたのです」便所|掃除人《そうじにん》波田は、風呂場のないことに、だれよりも、苦痛を感じていたのだ。それに、彼は、若くて新しい社会の空気を吸っていたのだ。船長はこの無邪気な、彼の便所を彼の居室よりも、金具などきれいにみがき上げるこのきれい好きな、忠実な青年が「過激派」であろうとは思わなかった。それに「こいつはストライクを見つけて歩くなどと、抜かしやがる! まるで、こいつらはパルチザンだ!」
 船
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