い、と言う点に至っては彼は鼻を鳴らすことをやめた。これは彼自身に関することであった。由々《ゆゆ》しい大事であった。
「セーラーを呼べ!」船長は無視するわけには行かなかった。無視すれば船も動かないだろうし、横浜で正月もできないし、それに、彼のサンパンに対して、文句をつけるとは全く、けしからぬのであった。
船長は、スタンバイの命令を出しっ放して、サロンへはいって、そこで、水夫らを「とっちめ」てやろうと待ち構えた。船員手帳は、チーフメーツに持って来さして、テーブルの上へ積み上げた。
かわいそうに、ボースンと大工は、フォックスルで鼻水を凍らせていた。
機関長はエンジンへはいって、ハンドルへ、手をかけて待っていた。
蒸気は、どんどん上がって来た。セーフチィヴァイヴァルヴが、吹きそうになって来た。サロンのテーブルにはメーツが船長の両側に並んだ。チーフ、セコンド、サードと。
ボーイはおもてへ飛んで行った。
「セーラー全部、ボースン、大工、コーターマスター、みな、残らず、サロンまで来てくれと、船長が言ってるよ。大至急!」煙のように、彼は、また、飛んで去った。
そこで水夫らは出かけた。
「やつは、高圧的に出るつもりだな」藤原は思った。波田、小倉、西沢、各《おのおの》は、別様の戦闘意志を持っていた。
ボースン、大工も青くなって来た。
この時、ファヤマンの方でも小倉が、持って行って見せた要求条件が、問題になって、主戦論と非戦論との猛烈な論戦が行なわれていた。だが、全体として階級闘争ということは、ハッキリ頭にはいっていなかった。従って、それは適当ではある、けれども、まだ直接の刺激、衝動が来ない、というような「感じ」が、彼らを、水夫らと共に立たせることを妨げた。しかし、彼らは、立たないにしても動揺はしていた。それは、立つまいものでもない気配に見えた。
彼らの出入り口の前を水夫らが通る時に、彼らは、喊声《かんせい》をあげた。
それは、サロンまで響き渡った。
これらのことは、万寿丸ができて、海に泛《うか》んでから初めてのことであった。
水夫たちは、笑《え》みを浮かべて、火夫たちに挨拶《あいさつ》しながら通った。それは、まるで、目をさました獅子《しし》の第一声のようでもあった。
何となく、いつもと違っていた。スタンバイがかかったのに、船体はピク[#「ピク」は筑摩版では「ビク」]ともしない。罐《かん》前の火夫や石炭庫のコロッパスは、デッキまで孑孑《ぼうふら》のように、その頭を上げに来た。
オイルマンは機関室からのぞいた。
サロンでは、交渉が開始された。もっとも、船長は、一撃の下《もと》にやっつけるはずであって、交渉などをする気はテンデなかったのだ。ところが、どうしたはずみかいつのまにか、交渉の状態にはいった――のであった。
四四
「これは、だれが、書いたんだ! これは! この要求書は?」船長は、その一声をこの文句によって切って離した。
「私が、書きました」舵手《だしゅ》の小倉が答えた。
「お前が?」船長は、その回転|椅子《いす》から、無意識に腰を浮かしたほど驚いた。小倉は、コーターマスターの中で、彼の一番愛していた従順な青年であり、頭脳もよく仕事もできる、その上|風采《ふうさい》のいい、サッパリした男だった。
「だれかが、お前に、それを書かしたんだろう。お前が自分で、こんなものを書くと言うわけがない、だれだ、この文章を作ったのは」彼はストキをにらんだ。
「私が、作ったのです」ストキが今度は答えた。
「そうだろう。お前だと思った。大体貴様は、横着だからな。貴様が、小倉や皆をおだててこんなものを出さしたんだろう」彼は裁判官のごとくに訊問《じんもん》した。
「そんなことは、きわめて枝葉の問題と思います。私たちは、食うために船乗りになっているのです。であるのに、船の仕事のために負傷しても、手当をしてもらえないということになれば、私たちは、命をすててかかったも同然です。もっとも、船では命をすててかかってることは、当然だといえば当然ですがね。しかし、ただ、私たちだけが、命を安売りするということは、私たちにも、承知ができないことです」
藤原は、最初の探照弾を打《ぶ》っ放した。
「それじゃ、勝手に下船して行ったらどうだったい。だれが、いつお前に、どうぞ、下船しないで乗ってくださいと頼んだ! 頼んだのはどっちだったか、よく考えて見ろ」
船長が言った。
「私たちは、どこへ行っても、いいところはないのです。だから、自分の『今』の生活を、よりよくする方法をとるよりほかはないのです。この船ばかりへ日が照らないと言って、下船したところで、他の船でも、陸でも同じことです。だから、自分の今いるところで、より良い条件の下《
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