らない!
藤原は、煙草の煙の間から、こんなことを考えていた。
彼は、その紙っきれをながめた。それには、要求条件の原案らしい文句が、書かれてあった。労働時間の制定、労銀増額、公休日、出帆、入港は翌日休業、公傷、公病手当の規定及び励行、深夜サンパン不可、などが乱雑に書かれてあった。
彼は今、それらの条項に、要求書としての形を与えるために、苦しんでいるのであった。「チェッ!」藤原は舌打ちをした。そして、煙草の灰を本の表紙の上に、やけに払い落とした。「こんなことを今さら、要求しなければならないなんて」
彼は、その紙きれをポケットに入れて、寝箱からおりた。そして、波田へたずねた、「小倉君の方は、どうなったんだろう」
「さあ、それを、まだ何とも聞かないんだがね」波田も、心配しているのであった。
「小倉は、当番《ウアッチ》かい、今?」
「どうだか」波田は、出入り口まで行ってブリッジを見た。
小倉は、ブリッジを、アチコチ歩きまわっていた。
「いるよ、海図室《チャートルーム》で、相談しようじゃないか」波田は、ストキに耳打ちをした。ストキはうなずいた。
「じゃ僕が、都合はどうだか、きいて来るから、君は、エンジンの上で、待っててくれたまえ」
波田は、そのまま、気軽に飛び出して行った。藤原は、一度奥まではいって、そこで、ベンチに腰をおろした。そして、煙草へ火をつけた。しばらくすると、フト何か、忘れものでも考えついたように、立ち上がって、デッキの方へ出て行った。
幸いに、メーツらは、明朝出帆の名残《なごり》を惜しむために、皆、どこかへ行ってしまっていた。
三人は、チャートルームへ集まった。
「西沢君に来て、もらわなきゃ」小倉が言った。
「今、女郎買いの話で、おもてを持てさせてるから、目立ったらいかんだろう、と思うんだがね」藤原が答えた。
「あいつあ、全く、しようがないよ。女郎買いの話となったら、まるで、夢中になっちまやがるんだからね、も少しまじめな時は、まじめに、やってくれなくちゃ、困るんだけどなあ」波田は、くやしがった。
「しかし、中には、中にはじゃないや、ほとんどだれもが、それ以外に何もないのに、それ以外のものを、あの男は持ってるだけ、いいじゃないか、味方に対しては、われわれは、徹底的に寛容な、態度を取らなきゃならないよ。そうしないと、味方の戦線から、自然に壊滅しちまうからね」藤原はなだめた。
「で、コーターマスターの方はどうだろう。まだ、話してもらえなかったかしら」藤原は、小倉にきいた。
「まだ、話さないんだよ。どこから切り出していいんだか、話が、すっかり、打《ぶ》ちまけられないので困っちゃったんだよ。だからね、要求書を出す間ぎわになって、それを見せて意見を聞いたら。そしてもし、コーターマスターとしての、提出要求でもあるということなら、それを追加して、提出するということにしたら」小倉は答えた。
「そうだね。その方がいいだろうね」藤原は賛成した。「その方が、秘密を保つ上にも、かえっていいだろうよ」波田も賛成であった。
「じゃあ、僕は、西沢君を連れて来よう。そして決めちまわなきゃ、明日《あす》のことになるのじゃないかい」波田は、何だか追っ立てられるように、心が急がしいのであった。
「ちょっと」と小倉は手で制した。「僕は、もう十五分で非番だから、非番になったら、ともの倉庫で寄り合ったらどうだろう」時計は、八時前十五分[#「八時前十五分」は底本では「八時十五分」と誤記]をさしていた。
「そう、そうしよう。一人ずつ、チョッと上陸すると、いった格好をして、出ればいいからなあ」
「じゃあ、そうしよう」そこで、二人《ふたり》のセーラーは下へ降りた。
おもてへ帰った波田は、西沢に、八時の鐘がなったら、ともの倉庫で、相談があるから、わからないように抜けて来て、くれるようにといった。西沢はうなずいた。
ストキは、ベンチへ聴衆の一人と、いったような顔つきで腰をおろして、例によって、煙草をふかし続けた。
四一
八時が鳴った。その時には、もう藤原はいなかった。波田は、ボーイ長のそばに、腰をおろして話していた。「じゃ、正月までの菓子を、食いためて来るからね。おみやげを忘れやしないから、待っていたまえよ、え、相変わらず、東洋軒さ、ハハハハハ」と、波田は、ともの倉庫を東洋軒にしてしまった。
「え」西沢は頓狂《とんきょう》な声を出した。「波田君! 僕も、たまにゃ連れて行けよ」そこで、二人は、連れ立って、倉庫へやって来た。
藤原は、目玉ランプを抱《かか》えて、綱敷き天神みたいに、ホーサーの、巻き重ねてある上にすわっていた。やがて小倉もやって来た。
それで、一切は動員された――というわけであった。
「そこで、僕
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