始末に行かなかった。
 中でも、最も困ることは、からだの凍ることであった。
 冬の日電柱に寒風がうなり、吹雪《ふぶき》の朝、電柱の片面に、雪が吹きつけられて凍っているのがちょうどその面《おもて》に日でも当たっているように見える。その電柱の数倍の高さと太さとで、マストは海中、何のさえぎるものもないところに吹きさらしに突っ立っているのだ。
 全くそのマストを相手の仕事はあぶなくもあるし、寒くもあった。
 仕事は一番のマストから始められた。自分で自分のからだをロープに縛りつけて、それを、マストのテッペンへプロッコを縛りつけ、それへそのロープを通して、一端を自分が持っているのだ。塗りながらだんだんそのロープを延ばし、延ばしては塗り、塗っては延ばして下の方へ下がって来るのだ。
 われわれの仕事はペン塗りは夏においては、大変やりいいのである。それはペンキがのびるからである。だが、この場合、ペンキはいくら油でのばしても、夏の時よりも、はるかに濃い。波田は濃くて堅くて延びの悪いペン罐《かん》を腰のバンドに縛りつけて、マストのテッペンから塗り始めた。
 向こう側を西沢が塗っていた。
 高架桟橋は、マストのテッペンから四、五間下に見えた。
 「桟橋は高いようだが、マストよりは低いんだなあ」波田は西沢にいった。
 「そらそうだ、だがどうだい、寒いこたあ、手に感じなんぞありゃしないぜ」
 二人《ふたり》は、ペンブラッシュを子供が箸《はし》をつかむようにしてつかんで塗っていた。風のために彼らをつるしているロープは揺れた。彼らは機械体操をする人形のように、足をピンピンさせながらマストから、離れず、即《つ》かずのところで仕事をしなければならなかった。どうかすると二人の労働者は、マストの一つの側で打《ぶ》つかるのであった。
 「オイオイ、こっちはおれの領分だぜ!」
 「冗談言っちゃいけない」
 そこで二人は横をながめる。桟橋が左の方にあれば、西沢が正しいのだ。西沢は船首から船尾を向いて、船首部分を塗るのだった。
 彼らをつるしたロープまで、堅く凍ったように感ぜられた。彼らはもちろん「棒だら」のように凍って堅くならないのが不思議であった。
 「こんな団扇《うちわ》みたいなボロ船を化粧してどうするってんだろう。え、船長も物好きじゃねえかなあ、いくらお正月だって室蘭でマストのペンキ塗りなんざ、万寿丸の船長でなきゃ考え出せねえ名案だぜ」西沢がガタガタ震えながらそれでも、早く降りたいばかりに、盲目《めくら》が杖《つえ》を振り回しでもするようにむやみに塗り立てた。
 「やつあ、おいらが、マストにくっついて凍ったのが見たいんじゃなかろうかい? え、おれは、あいつの魂胆はてっきりそこだと思うよ」波田も震えていた。
 「きまってらあね、金魚が凍りついたのよりゃ、よっぽど、人間がマストへ凍りついた方が珍しいからね」西沢が答えた。
 大きなマストも、その高い部分では、随分揺れた。それは、その磨《みが》き澄ました日本刀のような寒風が揺するのだった。
 「はたちやそこらでペンカンさげて、マストにのぼるも――親のばちかね」西沢は坑夫の唄《うた》をもじって、怒鳴った。
 ――シューシュ、どころか今日《きょう》このごろは、五銭のバットもすいかねるシュッシュー――と波田もうたった。
 「何だ捨てられた小犬みてえな音を出してやがる」西沢が冷やかした。
 「おめえのはペン罐をたたいてるようだよ」波田がやりかえした。そして彼は下を見た。
 「オイ、まだ大分あるぜ、何とかうまい便法はねえかなあ」波田はこぼした。
 「あるぜすてきにいいことが」西沢がいった。
 「ヘッ! 下におりてストーブにあたるこったろう」
 「もっといいんだ。マストのテッペンから海へ飛び込むんだ! そうすれや、どんな難病でも、いやな仕事でも一度に片がついてしまわあ」
 「全くだ」
 彼らはほとんど、無意識に、マストを、こすっていた。水の中で金魚が凍るように、彼らは、宙天の空気の中で凍りそうであった。
 西沢と、波田とは、マストのペンキ塗りを「やりじまい」で命じられたのであった。「やりじまい」とは字のごとく、やってしまえば、その日の仕事のしまいということであった。つまり仕事を、請け負ってやることであった。
 それは大抵都合の悪いことであった。なぜかならば、仕事を当てがう方では、普通の一日行程ではなし遂げ得ないで、しかも急いでいる仕事を「やりじまい」に出すのであった。すると、出された方では、尻尾《しっぽ》に紐《ひも》を縛りつけられた犬のように、むやみにグルグル回ったり、飛びはねたりして、その仕事から免れようと狂うように働くのだ。
 「やりじまいだぞ、二時には済まあ」セコンドメートは、未熟の南瓜《とうなす》のような気味の悪い顔を妙にゆが
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