員は、何物、何事に対してでも「病的」に欲望を持っていた。安井、藤原なども量的には、時とすると波田以上であっただろう。
三人は、木炭の埋《い》けられた火鉢《ひばち》をはさんで、菓子をつまんだ。こういうことは、ボーイ長は、いまだかつて経験しなかったことだ。非常に惨憺《さんたん》たる生活をしていた労働者が、何かくだらぬ犯罪で、監獄にほうり込まれる。そこでは、彼は、いまだかつて食ったことのない豚肉や、魚肉やを食べさされた。そこの労働は、彼を今まで、苦しめたよりも楽であった。土地のやせた、産業のない、深い山中の谷間などから、四十を越してとらえられた、囚徒などの、やや低脳なのに、そう言うのがある。そして彼は、晩年を獄中で送ることを意に介しないように見える。
一八六三年、法刑及び懲役にされた、囚徒の給養や労働状態について、英国政府が調査した結果からマルクスは、ポートランドの監獄囚徒が、農業労働者や、植字工などよりも、よい営養をとっていたことを証明している。(資、一ノ三、二三八ページ)
一八五五年、ベルギーにおいても、デュクペシオー氏は、書物の中で、悲惨でないと思われている標準的の労働者が、同国における囚人の営養よりも、十三サンチームだけ営養が少なかったと書いている。(資、一ノ三、二二四ページ)
世の中には、監獄よりも、食物や、労働においては、中には一切にわたって、苦しい、生活をしている者もあるのだ。
ボーイ長は、負傷して、見舞金をもらって、初めて、そんな――炭火の埋《い》けられた、茶の道具の並んだ盆や、名前も知らない非常にうまい菓子を食べ、お茶を飲み、ゆっとりとした、――気分を味わうことができたのであった。これは、監獄にはいって来て初めて「豚の肉」に、ありついた哀れな労働者と似てはいないだろうか?
――私は、読者に、断わって置かねばならないのは、以上のことによって、監獄がいいところだということには、ならないことを承知してもらいたい、監獄よりも悪い条件が、あるということは、監獄が、いいということの、一つの条件にもなり得ないからだ。――
ボーイ長は、その注意を足や胸から、しばらくの間は、引き離すことも、できるようになった。彼は、つまり、いくらかほかのことも、考えることができるようになった。というのは、手術をしたり、薬の香をかいだりしたのが、彼を、いたわったのだ。
「船に乗ってるとこういうものは、とても食べられないね」などといって、彼は「鹿《か》の子《こ》」の小豆《あずき》を歯でかみとったりしていた。
「全く、この家の菓子はうまいよ。横浜にだって、たんとありゃしないよ」波田は通がった。
「菓子の鑑別にかけちゃ、波田君は、ブルジョア的の嗜好《しこう》を持ってるからなあ」藤原は笑った。
三人は、胸の焼けるほど菓子を食った。その間に、疲労も回復された。そして、しばらくは、船のことや、一切のいやなことを、忘れてることもあった。が、藤原の心は、ストライクが、いつ起こさるべきであるかが、ほとんど、忘れられなかった。
彼は、菓子を食いながら――「万人が、パンを獲るまでは、だれもが、菓子を持ってはならぬ」というモットーを思っていた。この言葉、このモットーは、どのくらい、藤原を教育したことであろう。この簡単でわかりのいいモットーは、全世界の、労働者たちの間に、どんなに、親しい響きをもって、口から口へ、村から街《まち》へと、またたく間に、広がって行くことだろう。そして、この言葉は「アーメン」を口にする人の数を、今でははるかに、抜いているのだ。そこには、新しい感激に燃える真理が、炬火《たいまつ》のごとくに、輝《ひか》っているのだ。――
藤原は、勘定を払った。「済まないなあ、僕が、おれいにおごるつもりだったのに」とボーイ長は、藤原に負《おぶ》さりながら、真から恐縮して言った。
ボーイ長のまっ白の繃帯《ほうたい》は、それでも血がにじんで来た。「膿《うみ》が出るよりはいいね」と、ボーイ長は笑う元気が出た。
しかし、本船に帰り着いた時は、彼らは、グッタリくたびれていた。ボーイ長は、そのひきずった足のために、再びその神経は、かき荒らされてしまった。それは、美しい夢から目ざめた、牢獄《ろうごく》内の囚人の心に似ていた。
一切は、また狭い、低い、騒々しい、不潔な、暗い、船室の生活へ帰った!
三八
万寿丸は、横浜へ帰ると、そのまま正月になるのであった。従って、船体は化粧をしなければならなかった。船側は、すでに塗られた。次はマストが、塗られねばならない。
マストのシャボンふき、ペン塗り、――この仕事は、夏はよかったが、正月の準備などは、冬に決まっていたので、困難であった。シャボン水は凍ってヨーグルト見たいになるし、ブラシが凍るし、全く、
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