は、検温器がないんですから」藤原が答えた。
「夕方になると、気分が悪くなったり、寒けがしたりしやしないかい」医者はきいた。
「ええ、しょっちゅう傷は痛いんですが、気分がぼんやりして来るのは、夕方です。何だか、妙な夢なんぞ見て、うなされたりします。それに、寒けも夕方になると、きっと来ます」安井は答えた。
医者は、背中から呼吸器を聴診しながら首を傾けていた。
「入院ができるかい。入院をした方がいいんだがなあ」医者は、藤原の方に問いかけた。
「何でございましょう病気は。入院も、できなかないと思いますが、船の方から経費が出ないと、私たちでは、入院費がとても支払えないと存じますので」藤原は、正直なところを打ち明けた。
「病気ってのは、打撲から来たものだ、やっぱりね。足のように、中から骨と肉とででき上がったところはいいが、こういうところは、内部に複雑な、機関があるからね」といって、七面倒なむずかしい病名をいった。
「で、病気の原因が、負傷から来たものだということがわかれば、船から出るのかね? 診断書を書いて上げようかね」といって、医者は、診断書を書いて渡した。
「どうもありがとう、いずれ帰船して、相談いたしましてから」
三人は、礼を言って、ボーイ長は、波田に負われそこを出た。
診断書が、百通あってもだめだろうとは思ったが、とにかく、それは、一つの有力な味方であった。
今では、実際の負傷や疾病よりも、診断書の方が、重大な意義を持っているのだ。ことに、それは、労働階級の負傷疾病の場合、そうであるのだ。工場医は、資本家の診断によって診断書を書く、という役目だけを勤める場合が多かった。
資本家は、機械に截断《せつだん》された労働者、ベルトに巻き込まれて、砕けてしまった労働者、乾燥炉の中へおちて、焼き鳥のようになった労働者には驚かない。それの診断書だけに驚くのであった。
炭坑主は、自分の炭坑が、ガス爆発をした時に、五百人の男女工が、坑内で蒸し焼きにされていることには、決して驚かないのだ。彼は、その坑口の密閉が三年後にか、五年後にか開かれた時、まだ掘る部分が焼けずに残されているか、どうかに心配しているのだ!
汽船においても同じことだ。一緒に沈んだ人間は何でもない――しかし、船体は資本家にとって大きな永久の嘆きなのである。
船長も、ボーイ長の負傷そのものに対しては、驚くべき「理由」がなかった。だが、この診断書は、幾分なりとも、何らかの衝動を与えまいものでもない、と三人は空頼みにした。
小学校の子供たちが、本と弁当とを載せた小さい橇《そり》を引っぱって、笑ったり、わめいたりしながら、その高みにある学校から、ゾロゾロと帰って行った。道が、急な坂をなしているところになると、子供たちは、子供たちにとっても小さすぎる、その橇の上へ、両足をそろえて、まっしぐらに、下の街《まち》へすべり落ちて行って、曲がりそこねて、雑貨屋の店先に飛び込んだり、その破目板に打《ぶ》っつかったりした。中にはうまく曲がったは曲がったが、雪の掃きだめの山へ衝突して、煙のような粉雪をまき散らしたりする子もあった。
これは、ボーイ長にとって、たまらぬほど、愉快なことであった。いい気散じであった。
三、四年前までの彼の姿が、無数に雪の上をすべったり、ころんだりするのである。彼は、足のことを忘れてしまって、自分の負《おぶ》さっていることまで忘れていた。
彼を負んぶした波田は、汗をたらしていた。
「波田さん、菓子屋まで、まだ大分寄り道になるの」ボーイ長はフト菓子が食べたくなった。「きんつば」が食いたくなった。できれば、上等の蒸し菓子の中へ入れる餡《あん》だけが食べたくなった。彼は、甘いものを食べると、それは、血管を流れて行って、足の傷所《きず》で、皮になるように感ずるほど、それほど甘いものに飢えていた。それと一つは「上陸した以上は、煎餅《せんべい》一枚でも食わないと気が収まらん」と言う波田へ、その機会を与えたかった、と、休息したかったのと、最も彼を、この挙に出《い》でしめた重大な誘因は、一分でもおそく船へ帰りたかった、少しでも長く、陸の明るいところにいたかった。清い空気、ハッキリしたものの形、人間の生活、美しい一切のもの、それらと一刻も長く、一緒にいたかったのだ。
「そいつあいい思いつきだ」波田は、そのつもりで航路をそっちへとっていた。
東洋軒は、また、その日も、珍無類なお客を迎えた。
ボーイ長は、足がきかないので、日本間の方に三人は通された。
全く、波田がどのくらい甘いものに対して、真実の愛をささげているか、それは、私のよく表わし得ないところだ。彼は、ほんとの酒好きが、酒に目をなくす以上に、菓子には参っていた。それは「病的」だった。しかし、一体に、船
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