が、跡始末がもっと大切なんだからね」藤原は、彼の苦い経験を思い起こした。「せっかくきれいに掃除《そうじ》しても塵取《ちりと》りですっかり取ってしまわないで、すみっこの方にためときでもすると、埃《ほこり》はすぐに飛び出して、前よりもきたなくなるようなものだからね。ことに、三上のような捨てっぱちなやり方は、残った同志のことを思えばやれないはずだと思うよ」藤原は、一切のプログラムを腹案しつつ言った。「でボースンやカムネ(カーペンター――大工――の訛《なま》り)はどうするんだね」波田はボースンや大工が裏切り者になりはしないかを恐れた。彼らは籠《かご》の中で孵《かえ》った目白のようなものであった。自分の牢獄《ろうごく》を出ることを拒む、その中で生まれた子供のようであった。彼らは船以外に絶対に、パンを得られないほど、船に同化されていた。たとえば彼らは、ちょうど人間ほどの太さのねじ釘《くぎ》にされてしまったのだ。それは船のどこかの部分に忘れられたようにはまり込んでいるのだ。そして、それは大切なねじ釘なんだ。だから錆《さ》びるまでそこへそのまま置かれるのだ。錆《さ》びると新しいのと取り換えられねばならない。
 彼らはねじ釘の本質に基づいて、船体に錆びついているものと見なければならなかった。
 「よっぽど例外ででもなけれや、あいつらが船長に闘争を宣言するなんてこたあないよ」とストキもいった。
 「それやあたり前さ、今夜だって、ボースン、大工は、チーフメーツに大黒楼に呼ばれて、そこで飲んでるんだぜ。もちろんやつらあ、ねじ釘さ! だがやつらはかえっていない方が足手まといがなくっていいよ。今夜は貸金の利子を勘定する日さ」西沢は、すばしこくスパイしていたのだった。
 「おれたちは毎月の収入の五分ノ一ずつ出し合って、やつらに芸者買いをさせ酒を飲ましとくんだなあ」波田が言った。
 「では」藤原が言った。「要求書は僕が原稿を作って、それがまとまった上で、清書して判をおして、それから提出ということにしようね。それまではもちろん、絶対に秘密、しかし内容を秘してコーターマスターを説くことは小倉、君に一任しよう。ね、それでいいかしら、ほかにまだ考えて置くことはなかったかしら」彼はちょっと頭を軽くたたいて考えた。
 「もういいようだね」西沢が答えた。「だが波田君には菓子が、僕には酒と女とが足りないような気がするね」彼は大口をあいて笑った。空気まで寂しさに凍りついたような、静けさを破って、声は通りへ響いた。
 「波田君、どうだい、そんなにいけるかい」藤原は立ちながらきいた。
 「もういいよ。でも食えば食えないことは無論ないけれどもね。財政が許さないさ。ハハハハ」と笑った。
 四人はおもてへ出た。西沢は「ひやかして、一杯ひっかけてくる」と言って坂を遊郭の方へ上がって行った。三人はそろって、どこか、そこが外国の町ででもあるような感じを抱《いだ》きながら、馬蹄形《ばていがた》にその船へ向かった。
 ボーイ長は波田から菓子のみやげをもらって喜んだ。
 三人は、紅茶のおかげで眠られぬままに、ボーイ長のそばで、ストーブに石炭をほうり込みながら、前のボースンが、直江津《なおえつ》でほうり上げられた悲惨な話を、思い起こしては語り合った。

     三四

 それは、ここに今書くべきことではないかもしれない。けれども、それは書いた方が都合がいい。船長とは一体何だ? それの答えの一部にはなるだろう。
 それは夏の終わり、秋の初めであった。時々暑い日があって、また、時々涼しすぎる夜があるような時であった。万寿丸は同じく吉竹《よしたけ》船長――これはやっぱりこの船のブリッジへ錆《さ》びついたねじ釘《くぎ》以外ではなかった――によって、搾《しぼ》ることを監督されていた。そして小樽《おたる》から、直江津へ石炭を運んだ時の、出来事であった。
 本船が秋田の酒田港《さかたこう》沖へかかった、午後の一時ごろであった。まるでだし抜けに滝にでも打《ぶ》っつかったか、氷嚢《ひょうのう》でも打《ぶ》ち破ったかと思われるような狂的な夕立にあった。その時、船首甲板には天幕《ウォーニン》が張ってあった。それが、その風にあおられて、今にも、デッキごとさらって行きそうにブリッジから見えた。船長はすっかりあわてた。そして、あれをすぐ取れと、命じた。その時、夕立前の暑さで、おもては皆裸で昼食後の眠りをとっていた。そこへ、コーターマスターが駆け込んで「ウォーニン」をとれと伝えた。
 波田、三上、藤原、西沢らは元気盛りではあるし、船長をそれほど「怖《おそ》」れてはいなかったので、猿股《さるまた》一つで飛び出した。仙台と波田とは全裸で、飛び出した。それは風呂《ふろ》のない船においてのいい行水《ぎょうずい》であった。だが、風が猛烈
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