あったのね、私、私、私だって、私はね、小倉さん。あんたが高等海員の試験を受けて、船長に立身するように、試験を受けてでも、願ってでもなく、この商売に、むりやりにほうり込まれたんだわ。私のいうことがわかって、ホホホホホホ。私のいうことはね、こんな商売してても、それは私の知ったことじゃないってつもりなのよ。あなたが船乗りをしてるのも、私がこんな汚らわしいことをしてるのも、性質は同じなのよ。そしてね。私の方が、ほんとうは、もっと尊敬してもらわなければならないほど苦痛な部分を引き受けてるのよ。わかって? 人間が生きるためには、どんな苦痛でも忍ぶもんだわ。生きるためには、より早く死ぬ方法までに、飛びつくものよ。
私なんぞ死ぬまでに、ほんとに自分のしたいと思ったことの、反対のことばかしさせられてとうとう死んじゃうんだ。自分の思う通りになることは一つだってありゃしないんだわ。私はね初めはね、あんたをただのお客と思ったの、そして次には坊っちゃんと思ったの、その次はほんとに物のわかったおとなしい人だと思ったの、そしてね、今ではね、あなたは、そうね、何だろう、何といえばいいだろう、私のおとうさんだわ。私を産んだ、私の知らない、ほんとの私のおとうさんだわ、ホホホホホホ……私おとうさんに……」
二一
その夜は全く悪魔につかれた夜であった。人間の神経を鏝《こて》で焼くように重苦しい、悩ましい、魅惑的な夜であった。極度の歓《よろこ》びと、限りなき苦しみとの、どろどろに溶け合ったような一夜であった。
三上にも、小倉にも、それは回視するに忍びないような、各《おのおの》の思い出を、その夜は焼きつけた。それは永劫《えいごう》にさめることのないほどの夜であるべきであると思われた。それほどその夜は二人《ふたり》にとって大きな夜であった。
人間の一生のうちに、その人の一切の事情を、一撃の下《もと》に転倒させるような重大な事件があり、社会においては、全社会を聳動《しょうどう》せしめるような大事件がある。そして、それらの事件が必ず夜か昼かに行なわれ、その事件とはまるで関係なしに、夜になったり、朝になったりすることは、個人として、社会として、その事件に当面したものに、ばかげた、不思議な感じをきっと起こさせるものだ。中には「ああ、おれにとって、あれほど重大なことがあったのに、どうだろう、夜が明けた」と思わせるのである。
三上と、小倉とは、各《おのおの》が、そんなふうな感じをもって、朝の六時に起きた。二人ともはれぼったい目をしていた。
一夜は明けた。そして、重大なる事件は未解決のままに、夜を持ち越して、明けたのであった。それは、一夜を持ち越したために、事実の形を千倍もの太さにしてしまった。一夜――五時間――伝馬繋留《てんまけいりゅう》――水夫睡眠――何でもないことであった。それは全くきわめて平凡な詰まらないことであった。
ところが、それの舞台を、社会から、万寿丸にまで縮めると、問題が由々《ゆゆ》しく大きくなるのだった。
とまれ、小倉は「階段」のことは忘れたにしても、一応は、本船へ帰ってから、万事を解決した方がいいと考えた。ところが、三上は、それはばかなやり方だ、と考えた。そこに、三上と小倉との差違があった。
二人はその家を出た。そして、海岸を伝馬のある方へ逆に歩きながら、その事件の締めくくりについて考え合った。[#底本では「。」なし]
「おらあ帰らんよ」と三上は、さっきからいい続けていた。
「でも帰らなきゃ様子がわからないじゃないか」これは小倉の言い草だった。
「様子はわからんでもいいよ。あの伝馬をたたき売るか、質に入れるかして、おれたちはどっかへ行った方がいいよ」三上は自分の計画を初めて口に出した。
「でも、そいつあ困るなあ。僕は海員手帳が預けてあるし行李《こうり》もあるし、そいつあ弱るよ」小倉は全く困るのだった。彼は船長免状を取る試験のために、二度も沈没したりして、それに必要な履歴が実地として取ってあった。それは海員手帳に記入されてあった。
「だから、さようならって僕がさっきからいうのに、いつまでも君がぐずぐず、ついて来るからよ。君はサンパンを雇って帰れ。そして、三上が伝馬を盗んだとでも、何とでもいって、置けばいいじゃないか。僕はこれを売って、どこかへ行くんだから。行李や、手帳なんぞほしくもないや。早く君は帰れ!」
三上はクルッと反対の方を向いて、桟橋の方へ歩を返した。小倉も無意識にそれに従った。
「だって、すこしも君だけが悪いことはないじゃないか、大体船長が無理なんじゃないか、だから、帰ったって何ともないよ。帰った方がいいよ」小倉は、しきりに穏便な方法をとることを三上にすすめた。
「何でもかんでもいやだよ、おれは。もし帰る気に
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