そうでしょう。そうよ、そうよ、私にはね、あなたが自分で知らないことまでわかるんだわ。だから、まあ聞いてらっしゃい。だけどね、小倉さん。あなたは、それだけじゃ三上さんよりも、まだだめな、役に立たない穀《ごく》つぶしよ! わかって。世の中にはね、この汚れた世の中をすこしもよくしようとしないで、ますます悪く、腐らせて行くためにだけ努力していて、それでいて自分は点の打ちどころのない善良な人間だと思ってる人が沢山あるのよ。帽子をキチンとかぶって、几帳面《きちょうめん》な、ガキガキと歩いて、一銭も人から借り倒さないで、乞食《こじき》には、きっと一銭――一銭より少なくも多くもないことよ――それっぱかしだけやって、女といえば、おかみさんだけしか知らないで、それも、まるで家の雑巾《ぞうきん》と同様に無趣味に乾《かわ》かし上げて、ね、若いうちから、決して女郎買いなどしないで、その代わり、小倉さんは航海学を読んでるでしょう。そして、高等海員の免状を受けようともくろんでるわね。勉強してることね。あんたは。ね、いいの、あんた見たいに、勉強して、そして、階段を上がろうとして骨を折るのよ。だけどね、その階段はね、滅亡への階段ってのよ。わかって。それをうまくのぼっても、その階段自身が滅亡する運命になってるし、それがまたある間は、その階段をささえる土台の方で、無数の人間が失われる滅亡の階段ってのよ。その階段てのが、一切の原《もと》なのよ。ね小倉さん。実は、ありもしない幻の階段のために、実在してる人間が、永劫《えいごう》に苦しむってことはいいことなの。あんたにはわかるはずだわ。あんたは、その階段からまるでその焼けつくような目を放したことがないんだもの。それは、あんたにはわからねばならないんだわ。あんたは、私や、その他ありとあらゆる不幸な、あんた自身も、その不幸者の第一人よ。よくって、その沢山の不幸な人間をもっと、もっとモやすために、あんたは、大骨折りで勉強して、そしてひとかど善人ぶってるのよ。ホホホホホホ、とうとう、私、あんたを、大ばか者にしてしまったわね。ご免なさいね。だけど、それはほんとに、あなたは大ばかなのよ。ホホホホホホ」女は全速力の船の、スクルーシャフトが回転してるようだった。
 「ああ、それはほんとの事だ!」と、小倉は口走った。
 「僕は、社会の、秩序という大きな看板に隠れて、自分の利欲のみを得ようとしていた。それは全くだ」
 「ほうら、白状してしまったわ。あなたはね。高々船長ぐらいになって、三上さん見たいな人をいじめて、ご自分はまた、自動車か何かに乗った耄碌爺《もうろくおやじ》からわけもわからないことをいっていじめられたいの。およしなさい。仰向いて唾《つば》を吐くのはやめるものよ。だけど、あんたが船長になると、今度は、ほんとに純粋な生娘が、あんたに惚《ほ》れてよ。そして、船が着くたんびに、あんたに、ダイヤモンドの指輪を『愛の表象』としてねだることよ、ホホホホホ。それは、あんたに幸福をもたらすわね。私みたいな、ええ、私は淫売《いんばい》よ、それが、どうしたっての、小倉さん、あんたは淫売よりも、一生涯を通じての娼妓《しょうぎ》がお好きな一人《ひとり》でしょうね、ホホホホ。だけど、あんたは、さっき『僕が愛してると同じように僕を愛してる女がある』っていったわね。私、私、私だってだれにも劣らない愛を持ってるんだわ、だけど、私は前科者なのよ。ホホホホホ。世の中の人間は、自分を縛ってる鉄の鎖が、人をも縛ってると思うと、安心して自分の鎖が軽くでもなるんだと見えるわ。それはね、奴隷《どれい》道徳の鎖よ。因襲の鎖ってのよ。だけどね、小倉さん。私には、そんなことはないのよ。
 私そんなこと、夢にも思わないんだけれど、たとえばね、もしか、私があんたを愛したくっても私が淫売ならその資格がないとでも、あんたはいいたいんだわね。いいえ、そうよ、ま、黙ってらっしゃい」彼女は、小倉が何もいおうとしてもいないのに、あわてて彼のいうのをさえぎった。
 「私はあんたに愛させてくれるように、頼む資格もないと思ってるのね。だけどね、小倉さん、私は幻の階段を追うような利己主義者は、私の方でいくら頼まれてもいやなのよ。それは意気地《いくじ》なしの考える生き方なんだもの。それは私たちが、こんな恥ずかしい商売をするよりも、もっともっと恥ずかしい、堕落した、外道《げどう》のやり口よ。
 だけどもね、小倉さん、もしあんたが、そうでなかったら、もしあんたが立派な人間で階段なんぞ認めない人だったら、私は、私は、あんた見たいな人に初めて会ったことを白状してよ。そして、私は、あんたを、世界じゅうで一番強い、弱い者の味方としてなら、私はあんたを愛したいの。だけどもね、何だって私はばかなんだろう。あんたにはいい人が
前へ 次へ
全87ページ中33ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
葉山 嘉樹 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング