ら、気の毒そうに聞いた。
「私はね。この家へ来てから、あんた見たいな人に会ったのは初めてなの。初めの間は、私もあなたを『お客』だと思ってたの」といいながら、彼女は枕もとの火鉢《ひばち》の前へ、生娘《きむすめ》がするように、つつましくすわって、はにかみながら話した。
「だけど、だんだん話したり、聞いたり、見たりしたりしてるうちに、あなたは船乗り見たいじゃないように思えて来たの。私ね、こう思ったのよ。この人はきっと間違えてここへはいったんだ。そうでしょう。ほんとに牛肉のすきやきだけしか食べられないところだと思って来たのでしょう。そういう人の前へ出ることは私たちには恥だとはあなたは思わないの。相手が野獣であるときだけ、私たちだって野獣にもなれるのよ。私たちは、何でものろってやるわ、何でも、神様や仏様なんぞ、とっくの昔に、のろって、私はそばに寄せ付けないようにしてるわ。だけどもね、私たちの家に、私たちの肉以外のものを、まるで坊っちゃん見たいな、素直な気持ちで求めに来たあなたには、私たちの気持ちはわからないでしょうね。
私たちはね、あなたのような人を見ることはないのよ。監獄にはいってる女の人が、男の人を見ることよりも、もっともっと、ずっと、私たちがあなた見たいな人を見ることの方が少ないのよ。それはね、男の人は、皆|獣《けだもの》だからなのよ。
ええ、全く獣なのよ。私はそう断言できてよ。だけどね。それや男の人の罪でもないんだわ。それはね、神様や仏様の罪なんだわ。そうでしょう。ね、自分で人間を作って置いて、自分でこれはいいあれは悪いと決めて置いて、そして、自分の作った人間を、自分の作った罪悪の中へ、まるで陥穽《おとしあな》にでも落とすようにして、はめ込んでしまうのは、それや神仏の責任だわ。だから、私のこわいのは、神仏じゃないの」
「じゃ何がこわいんだね」小倉は眠くてたまらなかったが、女の珍しい言葉につい興奮さされて起きていたのだった。
「私寒いから、あなたのそばへはいってもいいでしょう。ね、ただはいるだけなのだから、ね、いいこと」
といいながら、女は帯も解かずに小倉の寝床へはいって来た。そして床のすみに小さく黄金虫《こがねむし》のように固まりながら、
「私たちはね、ほんとに心から『愛そう』と思う人を見つけることができないのよ。
私たちが、第一、選《よ》り好みする事がいけないって、あなたも考えて? 私たちだって、何かを見分ける力を持つことが、悪いってことはないでしょうね、よし悪くっても、それはあるものなんだわ、だから私たちは、心から人を愛するということはできないのよ。だけどもね、それは私たちの愛するだけの『価値』のある男が、この世の中にないってことじゃないのよ。そういう人もあるのよ。ええ、そういう人もあるのよ。そしてね、随分|癪《しゃく》にさわることはね、それは全く腹の立つ、癪にさわる生意気なことなのよ。そういう男はね、私たちが、ほんとにしんみりして、その人と愛し合いたいと思うような、そういう人はね、いつでもきっときまり切ってばかなのよ。ばかでのろまで、ぼうっとしてるの。でそういう男はね、私たちが、その男を愛してるってことがわからないのよ。そしてまた、その男は随分ばかね。私たち見たいな女は、男性を愛することは職業的以外にできないとでもいったように、無関心なのよ。全く、ばかにつける薬ってものは昔から、どこにもなかったのね」
彼女は、まるで夢遊病者か何かのように、天井を向いたっきり、その大きく開いた目を、自分の頭蓋骨《ずがいこつ》の内部でも凝視しているように、じっと据えて、熱に浮かされてるように、早口に、熱心に、そして、一人《ひとり》で小火《ぼや》を消しでもしてるようにあせって、あわてて話した。そのくせ、彼女のからだはそこへ鋲《びょう》でねじつけられでもしたように、動かなかった。
小倉は、よく話がわかった。そして、自分が、気取り屋でばかであることを、十分にこっぴどくやっつけられていることも知っていた。けれども、それにしても、「何という聡明《そうめい》な女だろう」と、彼はもうすっかり眠けを奪われてしまって、女の言葉の方向の動くがままに、その疲れ切った意識を引きずり回され、血みどろにされるのであった。
「そしてね、そんなばかげたことは、あるはずがないのだけれどね、私たちも、また、ばかなのよ。なぜだと思って? それはね、私たちはいつでもきまり切ってばかだけに惚《ほ》れるのよ。そのばかはね、いつでもきまり切って、戸惑いした雀《すずめ》のように、間違って飛び込んで来るだけなのよ。ホホホホホ、ね、小倉さん、あなたはご自分が賢くって品行のいい、船のりには珍しい、堅い、善良な、そしても一つあるのよ、人類のためになる人間だと思ってるのね。ね、
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