んたの方がかわいそうだわ」と女は、しんみりといった。
 「陽気に見えたからって、その人間は何もかもが苦労がないわけじゃないだろう。あれはね、さびしくてたまらないからはしゃいでるんだよ。それにあの男にはね、苦労があるんだ。私もあの男のために一つの苦労を持っておるんだ」と小倉は女が、しいて彼のきげんをとるに及ばないことを暗示しようとした。
 「まあ! あんたは若いおじいさんね。あの人より若いんでしょう。だのに息子《むすこ》の事でも気にするように、あの人のことを気にしてるわ、でも、あなたは、いい人ね」と、だんだんまじめになりながら、女はそれでも、「ひやかすのよ」といった調子を含めていった。
 「どうしたんだ。大変おそいね、便所が」と、小倉は女にきいた。
 「あら!」と女はわざと驚いて見せて、「もうおやすみになったんだわ、あなたまだ厠《かわや》にいらっしゃらない」
 「もう幾時ごろだろう」
 「三時よ、もうじきに。やすみましょうよ。ね」
 「だけど、僕今夜じゅうに船にあの男と一緒に帰らなけれゃならないんだがなあ」小倉は困ったようにいった。
 「なぜ? 私がいやなの。だったら私代わってもいいわ。そんなこといわないでね。後生《ごしょう》だわ」
 女は、小倉が自分をきらって駄々《だだ》をこねるんだと思って、困り切っていた。
 「ねえさん。間違っちゃいけないよ。僕、ねえさんが、きらいでなんかありゃしないんだよ。ただ、船長がね、今夜じゅうに船に帰れといって、帰っちゃったんだよ。それにね、船じゃあ、みんなが、この暴化《しけ》だろう、だから気づかって待ってるだろうと思うんだよ。船長のいうことは、僕はどうでもいいけれど、船にいる僕たちの仲間はね、寝ずにいちゃ気の毒だろう。だから、あの男と二人で夜の明けないうちに帰りたいと思ってるんだけどね」
 「じゃ、あたし、そんなわけならあの人にきいて来て上げますわ。どうなさるかってね。だけど、ずいぶんしけてなくって? あぶないわね」といいながら障子を明けて出たが、それを締める時にちょっと振りかえって、「ちょっと待ってらっしゃいね」といって、三上の方へと行った。
 「無産階級には共通な感情がある」と小倉は思うと、急にセンチメンタルな気持ちになって、その女が帰って来たらいきなり熱いキッスを与えてやろうと思った。
 やがて女は帰って来た。そして、小倉のそばに遠慮がちにすわりながら、
 「ねえ、あの方、三上さんてえの、あなたが小倉さん、ね、小倉さん、三上さんはね、あなたを巻き添えにして済まないけれどね、とても今夜は帰れないんですって、明日《あす》になったって、どうだかわからないんだなんていっててよ。そして、済まないがとにかく明日の朝まで待ってくれるようにっていって、そのまま寝てしまいなすったわ」
 「ああ、いいよ。それじゃ僕も泊まらせてもらおうか。ねえさん。僕はね、ねえさんがきらいでなんぞないんだよ。抱きしめて、キッスしたいくらいだよ。だけど、僕にはね、僕が愛してると同じように僕を愛してる人があるんだよ。だから、僕は一人で寝るから、ねえさんは、帳場の具合が悪かったら、床を二つ敷いて、並んで寝ようね。そして寝物語に、ねえさんのほんとの恋人の話でも聞こうよ」といって、さびしく気の毒そうに小倉は笑った。
 「まあ!」と立って床を延べようとしていた女は、急に小倉の膝《ひざ》の上につっ伏《ぷ》した。そして泣き入るのだった。小倉はびっくりした。
 「どうしたの。一体、え、そんなに帳場に都合が悪けりゃ一緒だって、ちっともかまわないから、泣くのはおよしよ。ね」
 小倉は女を起こそうとした。女は起きなかった。そしてなおも泣き続けるのだった。
 「およし、ね。泣くのはもうおよし。どんな、苦しい事情があるか知らないが、聞かなけりゃわからない。泣くほどの事があるんだったら膝とも談合ってこともあるから、僕にでも話して気が紛れないこともないかもしれない。とても力にゃなれまいけれど、もし役に立つことがあったら、役に立つから、泣いてばかりいないで、話してごらんな。ね、僕明日の朝早く帰らなきゃならないんだからね。また二、三日か四、五日は碇泊《ていはく》してるから、毎日にでも来るから、ね。サア床を敷いておくれ」といって、小倉は女をその膝の上から抱《かか》え起こした。
 「ええ、今、床を敷くわ、ちょっと待っててね、片づけるから」ハンケチで目を押えてさびしそうに彼女はそこらの食べ散らしを片づけ始めた。小倉も彼女に手伝って、七輪《しちりん》などをかたわらへ寄せた。

     二〇

 寝床はそこへ敷かれた。それは一つであった。枕《まくら》も男枕が一つッ切りであった。
 「どうしたんだい、お前さんはなぜ泣いたりしたんだね」と小倉は、そのまま床の中へもぐり込みなが
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