なったら、出帆間ぎわに帰る。それまでおれは隠れてて船の様子を見ることにするよ」
彼はこういってズンズン歩いて行った。
小倉は夢でも見続けているように、ボンヤリしながら、三上のあとから無意識に歩いた。
三上は波止場に来て、昨夜つないだ船の伝馬にヒョイッと飛び乗った。小倉も乗ろうとすると、手を振って「みんなに、出帆間ぎわにこれ――といって伝馬を指さして――で帰るからといっといてくれよ。なあ」といいながら、グーッと波止場を押して、離れてしまった。
小倉は失心したようにたたずんでいた。
三上は、その五人前もあるような腕に力をこめて橋の下をくぐって見えなくなってしまった。
「なるほど、三上は帰れないはずだ。船長を脅《おど》かしたんだもんなあ、それを帰れといって、昨夜《ゆうべ》一晩泊まった、おれは何という白痴だったんだ。三上は、たとい理由があろうがあるまいが、どのみちやッつけられるに決まっていたんだ。三上は、伝馬を質に入れるなんて、やつ一流の計画を立てて行っちゃった。が、それがどんなこっけいなやり方であろうが、やつがのこのこ船へ帰るよりははるかにましなこった。知っていて、陥穽《おとしあな》に首を突っ込むにゃ当たらないもんなあ」小倉は行く先を忘れた田舎者《いなかもの》のように当惑げにそこへ突っ立っていた。彼の役割は、この上もなく奇妙な、こっけいないいようのない不思議なものになって来た。
「船の伝馬に乗って来て、サンパンをやとって帰る! 一体どうしたんだ。そしてこの責任は、三上と僕とに、あるんだからなあ。どうなるんだ、一体。ままよ! 帰って見れやどうにかなるだろう」
彼はサンパンをやとって、万寿丸へ行くように頼んだ。
「万寿はいつはいったんだい」と虱《しらみ》小屋から、はい出した兄弟がきいた。
「昨夜《ゆうべ》おそくよ」彼は答えた。
「けさここへ纜《もや》ってあった伝馬は、万寿のじゃなかったかい」と、船頭はきいた。
「こいつらも知ってら。へ、知ってるはずだ。七時だもんなあ。だが、一体|昨夜《ゆうべ》のことは、ほんとにこのおれが経験したこったろうか、それとも、……全く不思議だったなあ」小倉は昨夜の女のことを考えていた。彼女は賢いそして「純潔」な女だった。
二二
小倉は万寿丸へ帰った。当番のコーターマスターは、梯子《はしご》をのぼり切ると、すぐに、小倉を取っつかまえた。
「どうしたんだい。心配したぜ、昨夜は、流されやしなかったかって。そして伝馬はどうしたんだ、やっぱりやられたのかい」
船に残った者は、なるほど一切の事情を知らないはずであった。そして、サンパン止《ど》めくらいの荒れた夜中のことだから、伝馬をやられたために、夜帰れなかったんだと、船員たちは勝手に想像して気をもんでいたのだった。「伝馬は、船長を上陸させて置いて帰りに、橋をくぐる時に、打《ぶ》っつけて、こわれた――それほど古くも弱ってもいないんだが――といえば、船員たちには、どうにかこうにか、三上が帰って来ないで、サンパンの船頭がしゃべらない限りわかりはしないんだが、さてそれでは三上はどこへ行ったということになるし、何も隠し立てする必要もないから、すっかりぶちまけた方がいいだろう。それで悪かったら、またその時のことだ」と、小倉はとっさの間に考えた。
「ナアに、やられやしないんだよ。妙なことになっちまって困ったんだよ」小倉はほんとに、今そのことについて、口を切って「実際これはおれの考えてるように簡単に片のつく問題じゃない、全く困ったことだ」ということを痛切に感じた。
「どうしたんだ。一体、そして三上は?」
「三上が伝馬で、けさ帰って来てるはずなんだよ」小倉は、三上が伝馬を売り飛ばすか質に入れるかするといった、その、とても実現できそうもない、彼の計画だけはいうまいと決心した。
「冗談いっちゃいけない。だれも帰って来やしないぜ」
「それじゃ、おもてでよく、すっかりその事情をくわしく話そう。ちょっと困ったことが起こったんだ。船長と三上とがけんかしたんだ。それを、今おもてで話そう。皆いるかなあ」小倉はこういいながら、もうおもてへのタラップを降りて、駆けて行った。
おもてでは、ボースンから、大工、水夫たち、全部が、いつでも入港のできるように、準備を整えて、船長の帰るのを待っていた。それよりももっと、三上と小倉との消息について待ち切っていた。
「どうも済まなかった。ただいま」と叫びながら小倉はそこへ駆け込んで来た。
「どうしたい三上は」
「さては女郎買いをしやがったな」
「伝馬で帰ったのかい」
「うまくやってやがらあ」
各人が考え、想像していたことの最初の言葉が、彼のまわりに、桟橋から船に落ちる石炭のように轟然《ごうぜん》と、同時に飛
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