たために、右舷《うげん》に尻屋岬《しりやみさき》の燈台が感傷的にまたたき初めた。荒れに荒れる海上に、燈台の光をながむるほど、人の心を感傷的にするものはない。この海の上は、今にもわれわれの命を奪おうとするほど暴《あ》れ、わめいている。そして、われわれの家は宙天から地底《じぞこ》へまで揺れころぶ。そこには火もなく、灯《ともしび》さえもない。だのに、あそこには燈台が光る。その燈台は、しっかりと地上に立っていて、そこには家族がある。団欒《だんらん》がある。愛すべき子供がある。いとしい妻がある。そこには火鉢《ひばち》があるだろう。鉄瓶《てつびん》がかかってるだろう。正月の用意の餅《もち》が搗《つ》けてあるだろう。子供がそれをねだっているであろう。「もうねんねするんです。ね、夜食べると、ポンポンいたいたですよ。サ、ねんね」と、母は今年三つになった子供を膝《ひざ》の上に抱き上げるだろう。そうして、かわいくてたまらぬといったふうに、子供の頬《ほほ》にキッスするだろう。そうして、夫《おっと》と顔を見合わせてほほえむだろう。そして、「明日《あす》はまた随分沢山鳥が落ちてることでしょうね。こんなにしけるんだもの。鳥だって船だってかないませんわね」と、いって、火鉢から鉄瓶をおろして、茶でも入れるだろう。そして、子供に隠して、その父から一枚の煎餅《せんべい》を出してもらって「坊やはいい子ね、サ、お菓子」といって出し抜けに子供にそれを与えるだろう。
 だのに、おれたちは、凍えるような風と、メスのような浪《なみ》と、雪のように冷たい資本家や、氷のように冷酷な船長の下《もと》で、労働をしているんだ。おれは何だって船員になんぞなったんだろう。
 ことに家持ちの下級船員はそうであった。彼らは、そうでなくてさえも、その家庭にたまらなくひきつけられているのに、暴化《しけ》のときには、その心持ちは長い刑を言い渡された囚人が、その家族のことを身も心もやせ砕けるように恋い慕い、気づかうのと異なるところがなかった。全く、今では、両|舷《げん》から、鯨油を流してさえいるくらいであったから。鯨油を流すことは、暴化《しけ》もはなはだしくならないとやらないことであった。
 尻屋の燈台はセンチメンタルにまたたく。日は暮れかけて、闇《やみ》は、波と波との谷間から煙のように忍び出しては、白い波浪の飛沫《ひまつ》に、け飛ばされていた。
 舵手《だしゅ》の小倉は、船首を風位から変えないように、そのあらゆる努力を傾注していた。彼の目はコンパスと、船の行方《ゆくえ》とを、機械的に注視していた。
 と、本船の前|左舷《さげん》はるかな沖合に、一|艘《そう》の汽船が見えた。「あ、汽船が!」と、小倉は無意識に叫んだ。
 船長もチーフメートもだれもがブリッジの左舷へ集まって、望遠鏡のレンズを向けた。
 この少し前から、ボートデッキで、サンパンの下にもぐり込んで仕事していた、水夫の波田芳夫《はだよしお》というのも、今小倉が見つけたのを見つけて、一人《ひとり》でサンパンの下からながめていたのであった。
 ブリッジでは望遠鏡があるために、その汽船は救助信号を掲げて、難破漂流しつつあるものであることがわかった。
 ブリッジからは、直ちにエンジンへ向けて、フルスピードを命令した。一つ救助に出かけようというのであった。
 全乗組員は難破船が見えると、その救助に向かうことを直ちに知ってしまった。そして、全員はボートデッキへスタンバイした。
 わが勇敢な、しかも自分も腹半分水を飲んだ半|溺死人《できしにん》のような、万寿丸は、その臨月のからだで、目的の難破船に、わずかに船首を向けた。きわめて、それはわずかの程度であった。が、本船はグーッと傾いた。そして見る見るうちに、その舵《かじ》が向いてもいないにかかわらず、グングンその頭を振り初めた。そして、同時に物すごい怒濤《どとう》が、船首、船尾の全部をのもうとするように打ち上げて来た。
 船長は、今いったばかりであったにもかかわらず、方位を元へ返した。本船はきわめて短い五分とかからぬ間《ま》に、ほとんどコースを半回転しようとしたのであった。
 難破船のやや近くへ近づくことはできたが、本船はその船首を非常な努力の下《もと》に従前どおりの位置に返してしまった。
 難破船を救うということは、本船を一緒に沈める計画になるというので、船首はもうその向きを換えなかった。けれども哀れな兄弟《きょうだい》たちの乗り込んでいる妹の難破船は、だんだんわれわれの視野に大きく明瞭《めいりょう》にはいるようになった。われわれは、今のコースをもって進むならば、四マイルぐらいのそばを通過するであろう。
 波田《はだ》は、サンパンの下からはい出してなおも一生懸命に、煙突にもたれて、寒さと、つかみどころを同時
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