保つために、一刻も放擲《ほうてき》しては置けなかった。
 そこへ水夫らは全部かけつけた。あるものは、カバーの金板《かねいた》をバーで動かそうと試みた。この間にも波浪は、船首甲板ほどではないにしても三、四|度《たび》、ここを洗った。
 水夫全体の力と小倉との力は水夫見習いを、鎖とカバーの間から引っぱり出すことができた。けれども見習いは、引きずり上げられた溺死体《できしたい》のようにだらりとして、目ばかりを宙につっていた。彼は直ちに、水夫|二人《ふたり》にかつがれて、最も震動と、轟音《ごうおん》のはなはだしい船首の、彼の南京虫《なんきんむし》だらけの巣へ連れ込まれた。
 仕事着を彼から脱がせることは最大の急務であった。が同時に最大の困難でもあった。まるで帆布作りの仕事着ででもあるように、それは凍りついていたのである。ついて来た藤原は、その腰のメスを抜いて見習いの仕事着を上手《じょうず》に切り裂いた。そして、彼の寝間着が、上にかけられた。
 ボーイ長の右手と右の肺の部分に紫暗色の打撲傷ができていた。そして左足の拇指《ぼし》が砕けていた。
 ストーブがないために、水夫らははなはだしく寒かった。見習いは、傷と、凍えのために、もしこのままにして置くならば、必ず、始末は早くつくということを皆知っていた。そこでついて来たストキと、水夫二人は各水夫の巣から、ありったけの毛布を集めて、それをかけてやった。
 そして、そのまま、全部彼らは船尾ハッチのカバー作業に駆けて行った。
 船尾のハッチは船首のそれと同様の危険と困難さをもって、作業された。手の届きそうな低空を、雪雲が横飛びに飛んだ。中に、濃い雪雲は、マストに引っかかってそれを抜いてでも行くかのように、はげしくマストを揺すぶった。水平線は、頭上はるかにのぼるかと思うと、足下《あしもと》深く沈んだ。(船の動揺は、同時に水平線を動かすものだ)ボーイ長(水夫見習いをいう)の運命は、全甲板労働者の現在のすぐ背後に鱶《ふか》のように迫っているのであった。
 船尾部分のハッチはこの上もなく厳密に密閉された。そして、次のは、機関室と、その上部にある士官室、サロンデッキとの陰になっていたために、以前の三つに比べて、作業は楽であった。そこで、藤原は、ランプをともす準備をするために、再び「おもて」(船首部分)へ帰って行った。
 ランプ部屋へはいる前に、彼はまず水夫室へはいった。まだ十七歳の少年、水夫見習いは、痛さに堪《た》えかねて、「おかあ様、おとうさん」と、両親を叫び求めては、泣いていた。そしては、しばらく息を詰めて、死のような沈黙の中へ落ちて行くのだった。藤原は、ボーイ長の寝床の端板にもたれかかって、ボーイ長の顔をのぞき込んだ。けれども、見えなかった。一つの窓もあけられていない水夫室は、出入り口から星の夜のような光がかろうじてはい込み得ただけであった。ことにボーイ長のは二層|床《どこ》の下部に当たり、光の方を背にしていたので、最も暗かった。藤原は、自分の床から蝋燭《ろうそく》をとって、ボーイ長の枕《まくら》もとに立てた。彼は白ペンキのように青ざめて、そしてくらげのように衰えていた。
 まだ、チーフメートは、何らの手当てもしには来なかった。
 彼は、ボーイ長を慰めた。そしてすぐにチーフメートが「膏薬《こうやく》」を持って、のろのろ来やがるだろう、やつらには、労働者よりも、ブロックの方が比較にならぬほど重大なんだ、しかし、心配しないがいい、皆がついているからといって、ランプ部屋へしたくに行った。
 万寿丸は尻屋岬《しりやみさき》燈台沖にかかった。暴化《しけ》はその勢いを少しも収めなかった。
 水夫らはボートやサンパンを吹き飛ばされないように、それを、より一層ほとんど、吹き出したいくらいに、頑丈《がんじょう》に、これでは沈没した時に決して間に合わないと、証拠立てられるほど、それほど頑丈に、くどくどとデッキや煙突にまで、綱を引っぱった。そして、この仕事は、波浪の恐れは全然なかったが、動揺と、風と、おまけに「てすり」がないので、海へ落ちるという危険を伴った。ボートデッキは、船中で一番高い部分であって、それは士官室の屋根と天井とを兼ねていた。
 水夫たちは、一本のロープを持って、ボートの下へ仰向けにもぐり込んだり、ボートの外側――そこはデッキ板一枚の幅しかなくて、海面まで一直線にサイドなのだ――に、今縛りつける、そのボートにつかまって綱をからげるために、サイドへ足を踏んばって、海の方へからだを傾けたりした。
 ボースンは、すぐ前のブリッジから、船長が作業を見ていたために、その禿《は》げた頭を、章魚《たこ》のように赤くしてあわてたり、怒鳴ったり、あせったりした。

     四

 陰欝《いんうつ》な薄暗がりが、海上にはい出
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