に得ながら見入っていた。狂犬の口をおおう泡《あわ》のようなおそろしい波浪と、この夕暗《ゆうやみ》とに、あの船はのまれてしまうんだ。彼は自分が二度も沈没に際会した時の事を思い浮かべては、その難破船に射込むような目を投げていた。
その小さな五百トンぐらいの小蒸汽船は、北海道沿岸回りの船らしかった。今やその煙筒からは燃え残りの煙草《たばこ》ほどの煙も出ていなかった。汽罐《きかん》に浸水したのはもうずっと早いことだったろう。そのマストの下の方には、桟橋に流れかかったぼろ布のように帆布が、まといついていた。汽罐に浸水してから、どこかのカバーでもはずしてマストに縛りつけたものであろう。わずかにデッキの上でバタバタと、その切れっ端《ぱじ》が洗濯《せんたく》したおしめのように振れていた。
それにしても船員は、ブリッジにも、マストにも、デッキにも、どこにも見えなかった。津軽海峡を越す時に命を捨てて、ボートででも本船を捨てたのであったのかもしれない、または、その各《おのおの》の室に凍えたからだを、動揺のままに、お互いに打《ぶ》っつけ合ったり、追っかけ合ったりして、楽しみのなかった生前の労働者の運命をのろい悲しんでいるのかもしれない。しかし、この暴化《しけ》はそれほど長く続いたわけでもなかった。本船出帆の前日がその最高潮であったのだからまだ二昼夜しかたっていない。船員は、あるいは、一室に集まって、別れのための最後の貧しい食事でもしているのかもしれない。
「ああ、おれは二度まで沈没船に乗っていた。一度は胴っ腹を乗り切られ、一度は衝突だった。が、どちらも瀬戸内海で、一度は春の末、一度は真夏であった。そして、そのどちらの時も救われた。けれども、北海道の冬の海ではとても助かりっこはあるまい。おれは、瀬戸内海で沈められた時に、海の中に飛び込みざま『助けてくれ』と怒鳴った悲鳴を今でも思い出せる。その叫びをあげる刹那《せつな》は全く、ありとあらゆる記憶、あらゆる感じ、それらのものが、一度に総勘定でもするように頭に浮かんで来た。そして、『十八ではまだ死ぬのに、二年早すぎる』と、おれは思った。何で二年早すぎたのか自分でもわからない。けれどもハッキリ自分は二年早すぎると思った。おお! もし、あの船の人たちが、死んだとすれば、皆おれと同じ感じを、抱《いだ》いて死んだことだろう。死ぬのには、人間は何歳になっても二年早すぎるのだと、自分はこのごろ考えるようになったが、全く、どのくらい多くの人が二年ずつ早く死んで行くことだろう。それにしても、この船長は何という冷酷、残忍なやつだろう。わずか四マイルや五マイルより離れていないのに、その最後を見届けようともしないとは。自分の悦楽《えつらく》のためにはこの船長はおれたちの生命を、いつでも鱶《ふか》の前に投げてやるだろうに。おれは、その沈没船に代わってでも、また、この船員たちのためにも、船長とたたかう時が必ず来ると信ずる」と、波田は考えにふけった。
難破船はますます近づいた。日は暮れたけれども、まだ夕明りである。船は、今ならば、もっと難破船へ近づくことができるのであった。が、わが、勇敢な万寿丸は船員全体の希望にもかかわらず、船長の一言によって、冷ややかに姉妹の死を見捨てて去ることになった。そして、本船には、救助不能の信号が揚げられた。相手へ知らすためのでなく、乗組船員をごまかし、同時に海事日誌をごまかすための。
実際、この時|暴化《しけ》はだんだん凪《な》いで来たのであった。船員は一時間前の勇敢なる船長の行動を不審に思うのであった。
そのかわいい小柄な船は四十五度以上五十度近く傾いて、今にもそのまま、沈み行きそうに見えた。そして人はどこにも見えなかった。甲板の上は見事に掃除《そうじ》されて、その掃除手の怒濤《どとう》は、わずかに甲板のすみに凍りついて残っているのみであった。マストのカンバス(帆布)は、ハッチの上部カバーであった。それは全くさびしい姿であった。火のない船であった。人のいない船であった。生命のない捨てられた世界であった。われわれは皆サロンデッキに並んで、浪と運命を共にするであろう、その船に別れを告げた。だれの心にも黒い、寒い寂寥《せきりょう》が虫食った。
これは、やがて、わが万寿丸の運命でもあった。われらが、船底に飢えと寒さとに倒れて漂流する時に、も少し大きな船がまた、われらの傍《かたわら》を通るであろう。われらは信号を掲げねばならぬことを知っているだろう。またわれらは、人間がその船室に凍えかけていることを、知らせる必要のあることを知っているであろう。それにもかかわらず、だれも甲板に出ないであろう。出られないのだ。途中でたおれてしまうのだ。
そして、ようやく、最後の一人《ひとり》がデッキへはい出た時には、今
前へ
次へ
全87ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
葉山 嘉樹 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング