うも知らなんだ」そのはずであった。
波田は、酒も飲まず、女郎買いもせず、おとなしくして、よく仕事をする評判な青年だったのだ。「全く、人は見かけによらないものだ!」
「え、どうだいボースン?」今度は藤原がぼんやりしてるボースンにきいた。
「え、ああ、おれあぼんやりしてたよ」彼はほんとにぼんやりしていた。
「冗談じゃないぜ、しっかりしてくれよ。皆大汗で働いてるんじゃないか」
西沢と小倉と宇野と波田と、この四人は交渉条件のことについて、何かしきりに話し合っていた。
そこへテーブルの上へ、機関部のボーイ長が、紙っきれを持って来て載せた。そして「これを機関部から」といってそのまま、逃げるようにして飛んで行った。
西沢は、その紙っきれを開いて見た。
[#ここから3字下げ]
フントウ ヲ シャス、セイコー ヲ イノル、キカンブカフ 一ドー セーラー ショクン
[#ここで字下げ終わり]
と電報文みたいに片仮名で書いてあった。
彼らはそれを見て、戸口の方を向いて、手をあげて合図をした。
「徹底的にやれ、罷業《ひぎょう》になれば、火は焚《た》かんから」戸口の外からだれかが怒鳴った。
四人はそれを藤原に見せた。彼は「ありがとう」と叫ぶのを忘れなかった。
やがて、船長室に密議を凝らしに行ったメーツらはサロンへ引っかえして来た。
要求条件には念入りにも、船長と、チーフメーツとの判が並べておしてあった。
「皆と相談の結果、要求を容《い》れることにしたから、今からすぐに働いてもらいたい、ボーイ長は、横浜着港と共にすぐ入院させるし、その他の条件も、即時実行することにしたから」船長は、低い声で言った。彼は自ら進んでこの条件を、認容したのだといったふうに、見せかけたかったが、あまりにも狼狽《ろうばい》した彼にはその方法もできなかった。
「バンザーイ」「態《ざま》を見ろ!」「労働者フレーフレー」などといいながら扉の外の火夫たちは、ドヤドヤと立ち去った。
「それじゃ、今からすぐに仕事にかかってくれ」チーフメーツは言った。
「ヘー、かしこまりました」ボースンは答えた。
「どうもありがとう存じました」藤原は、判のおされた要求書を、ポケットに収めながら言った。
彼らはおもてへ帰って行った。
水夫らは勝利を得た。だが、何だか物足りない感がだれもの、心のすみにわだかまっていた。
前へ
次へ
全173ページ中164ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
葉山 嘉樹 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング