を見張っていた。
 「貴様は、権利を持っている。この地上には、むやみに多くの権利が、他の権利を蹂躙《じゅうりん》することによって存在してる。だが、船長、いいか」彼はテーブルを、今度は拳骨《げんこつ》で食わせた。「人間を、軽蔑する権利は、だれもが許されていないんだ。また、他人の生命を否定するものは、その生命も、否定されるんだ! わかったか」彼は、そこにそのまま、すわることを忘れたようにつっ立っていた。彼はにらみ殺しでもしそうな目つきで船長を見据えていた。それは、まるで、燃える火の魂のように見えた。
 ストキは、波田の突き刺したナイフを静かにテーブルから抜き取った。そして、自分の席の前に置いた。
 船長は、ピストルを持って来なければならなかったが、そこを立つわけに行かなかった。彼は、初めて、彼が、ほとんど、歯牙《しが》にもかけなかった、低級な人間の中に、高級な彼をも威圧して射すくめてしまうだけの威厳を見た。それは、全く、何も持っていない、一人《ひとり》の労働者だ。地位も、金も、系累も、家も、それこそ何にもない、便所掃除の労働者の青二才じゃないか、だのに船長は椅子から立ち上がれなかった。
 彼は一度立ち上がって、途中で、グズグズとすわったことを悔いた。その、彼の前に立っている労働者が彼からその「煮える」ような眼光を放さなければ、彼は立てなかったのだ。
 それは、彼の職業的な、因襲的な、尊厳を傷つけるものであった。そして、一度負けたが最後頭の上がらない鶏のように、その後は、彼を永久に圧《おさ》えつける一種の不快な、重しになるであろう。それは脅迫観念にとらわれた病者が、何もないところに、恐るべき幻影を見て、狂い続けるのと同様であろう。それは見かけ倒しの立派な、芝居《しばい》の建て付けに、全身の信頼をもってもたれかかって、一緒に倒れるのと同じ人々の運命であらねばならぬ。彼は、芝居の建具によっかかっていたのだ!
 「貴様は、大きな錯覚に陥っていることを、自分で知らないんだ! 貴様だって、被搾取材料だ! でなきゃ[#「でなきゃ」は底本では「できなきゃ」と誤記]幇間《ほうかん》だ! 自分自身が何だってことを、内部からハッキリ見詰めろ! もしボーイ長を、この要求どおり、この要求は、あまり遠慮がしすぎてあるんだぞ、いいか、もし、これを許さなかったら、おれには覚悟があるんだ。おれが、覚悟を
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