面をフト、見せることがあるものだ。それは、よくないことであろう。だが、それから先には、なおらないであろう。
 船長はサロンに待っていた。チーフメートもそこにいた。セコンド、サードもそこにいた、陳列されたように頭をそろえていた。船長はそれらの人間にとっても、犯すことのできない人間であった。従って、ボースンなどは「陪臣」であった。
 ボースンは落ちて来た煙火《はなび》の人形のように、ガッカリしていた。彼は、ドーアのところへ立って、マゴマゴしていた。彼はためらっていたが、死のような沈黙と、屍《かばね》のような冷たい目とが、集まっていたので、そのまま思いを決めて、中へはいった。
 そこは、まるで法廷のようであった。そこでは、善人と悪人とは決定されてあった。
 ボースンのしたことは、論ずる余地がなかった。
 「お前に下船を命ずる! 今からすぐに。荷をまとめて、あの伝馬で上陸して行け、合意下船ではないぞ、下船命令だ! それでよろしい」
 きわめて簡単であった。抗弁もなかった。ありもしなかった。余裕もなかった。船長は自分の室へ、赤くなった目を休めに引っ込んだ。それぞれメートらも幽霊のごとく引き取った。
 ボースンはおもてへかえった。そして、どっかと自分の寝箱の中へ、からだを投げつけた。一切は決定した。ボースンは業務怠慢で下船命令を食ったから、一年間乗船を海事局の名によって停止されるのだ。それだけの事実なのだ!
 悲惨なる事実は、新聞の三面に「死んだ人」の欄に一括して載せられる。ブルジョアの結婚が破れたことは、全紙を数日間にわたって埋《うず》める。それだけのことなのだ!
 (以下十九字不明)凍死し、飢え死にし、病死し、自殺し、殺戮《さつりく》されることは、その状態なのだ! (以下七字不明)! もし、新聞や、その他の社会が事実を顛倒《てんとう》してると考えるならば、それは、君が資本主義の社会を見ていないからだ。
 もし、それらの悲惨なる事実がなかったならば、それらの悲惨事の上にのみ建つ、ブルジョアの社会建築はどうなるのだ。それは、だから、実は悲惨事ではないのだ。貧窮のために死滅して行くことは、すこしも悲惨ではないのだ。死滅して行くほどに多数が貧窮であるからこそ、これほど、ブルジョアが富んでいるんだ!
 だから、一切は、最上の状態なので、「これを動かしてはならない!」のだ。
 ボースン
前へ 次へ
全173ページ中124ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
葉山 嘉樹 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング